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嫌われる勇気

嫌われる勇気
岸見 一郎、古賀 史健

第一夜 トラウマを否定せよ

原因論と目的論

過去の原因ばかりに目を向け、原因だけで物事を説明しようとすると、話はおのずと「決定論」に行き着きます。すなわち、われわれの現在、そして未来は、すべてが過去の出来事によって決定済みであり、動かしのようのないものである、と。

アドラー心理学では、過去の「原因」ではなく、いまの「目的」を考えます。
ご友人は「不安だから、外に出られない」のではありません。順番は逆で「外に出たくないから、不安という感情を作りだしている」と考えるのです。

つまり、ご友人には「外に出ない」という目的が先にあって、その目的を達成する手段として、不安や恐怖といった感情をこしらえているのです。アドラー心理学では、これを「目的論」と呼びます。

トラウマ

アドラー心理学では、トラウマを明確に否定します。ここは非常に新しく、画期的なところです。たしかにフロイト的なトラウマの議論は、興味深いものでしょう。心に負った傷が、現在の不幸を引き起こしていると考える。人生を大きな「物語」としてとらえたとき、その因果律のわかりやすさ、ドラマチックな展開には心をとらえて放さない魅力があります。

アドラーが「経験それ自体」ではなく、「経験に与える意味」によって自らを決定する、と語っているところに注目してください。たとえば大きな災害に見舞われたとか、幼いころに虐待を受けたといった出来事が、人格形成に及ぼす影響がゼロだとはいいません。影響は強くあります。しかし大切なのは、それによってなにかが決定されるわけではない、ということです。われわれは過去の経験に「どのような意味を与えるか」によって、自らの生を決定している。人生とは誰かに与えられるものではなく、自ら決定するものであり、自分がどう生きるかを選ぶのは自分なのです。

感情の支配

怒りとは出し入れ可能な「道具」なのです。電話がかかってくれば瞬時に引っ込めることもできるし、電話を切れば再び持ち出すこともできる。この母親は怒りを抑えきれずに怒鳴っているのではありません。ただ大声で娘を威圧するため、それによって自分の主張を押し通すために、怒りの感情を使っているのです。

わたしは感情の存在を否定しているのではありません。誰にでも感情はあります。当たり前のことです。しかし、もしも「人は感情に抗えない存在である」とおっしゃるのでしたら、そこは明確に否定します。われわれは感情に支配されて動くのではありません。そして、この「人は感情に支配されない」という意味において、さらには「過去にも支配されない」という意味において、アドラー心理学はニヒリズムの対極にある思想であり、哲学なのです。

不幸なわたし

たとえばいま、あなたは幸せを実感できずにいるのでしょう。生きづらいと感じることもあるし、いっそ別人に生まれ変わりたいとさえ願っている。しかし、いまのあなたが不幸なのは自らの手で「不幸であること」を選んだからなのです。不幸の星の下に生まれたからではありません。

ライフスタイル

人は常に自らのライフスタイルを選択しています。いま、こうして膝を突き合わせて話しているこの瞬間にも、選択しています。あなたはご自分のことを、不幸な人間だとおっしゃる。いますぐ変わりたいとおっしゃる。別人に生まれ変わりたいとさえ、訴えている。にもかかわらず変われないでいるのは、なぜなのか?それはあなたがご自分のライフスタイルを変えないでおこうと、不断の決心をしているからなのです。

ライフスタイルを変えようとするとき、われわれは大きな”勇気”を試されます。変わることで生まれる「不安」と、変わらないことでつきまとう「不満」。きっとあなたは後者を選択されたのでしょう。

変われない理由

あなたは「もしもYのような人間になれたら、幸せになれる」といいました。そうやって「もしも何々だったら」と可能性のなかに生きているうちは、変わることなどできません。なぜなら、あなたは変わらない自分への言い訳として「もしもYのような人間になれたら」といっているのです。

落選するならすればいいのです。そうすればもっと成長できるかもしれないし、あるいは別の道に進むべきだと理解するかもしれない。いずれにせよ、前に進むことができます。いまのライフスタイルを変えるとは、そういうことです。

アドラーの目的論は「これまでの人生になにがあったとしても、今後の人生をどう生きるかについてなんの影響もない」といっているのです。自分の人生を決めるのは、「いま、ここ」に生きるあなたなのだ、と。

第二夜 すべての悩みは対人関係

自分の短所

彼女は自分に自信を持てていなかった。このまま告白してもきっと振られるに違いない、そうなったら自分はますます自信を失い、傷ついてしまう。という恐怖心があった。だから赤面症という症状をつくりだしたわけです。
わたしにできることとしては、まずは「いまの自分」を受け入れてもらい、たとえ結果がどうであったとしても前に踏み出す勇気を持ってもらうことです。アドラー心理学では、こうしたアプローチのことを「勇気づけ」と呼んでいます。

あなたは他者から否定されることを怖れている。誰かから小馬鹿にされ、拒絶され、心に深い傷を負うことを怖れている。そんな事態に巻き込まれるくらいなら、最初から誰とも関わりを持たないほうがましだと思っている。つまり、あなたの「目的」は、「他者との関係のなかで傷つかないこと」なのです。

対人関係のなかで傷つかないなど、基本的にありえません。対人関係に踏み出せば大なり小なり傷つくものだし、あなたも他の誰かを傷つけている。アドラーはいいます。「悩みを消し去るには、宇宙のなかにただひとりで生きるしかない」のだと。しかし、そんなことはできないのです。

劣等感

事実として、なにかが欠けていたり、劣っていたりするわけではなかったのです。たしかに155センチメートルという身長は平均よりも低く、なおかつ客観的に測定された数字です。一見すると、劣等性に思えるでしょう。しかし問題は、その身長についてわたしがどのような意味づけをほどこすか、どのような価値を与えるか、なのです。

自分の身長も「人をくつろがせる」とか「他人を威圧しない:という観点から見ると、それなりの長所になりうるのだ、と。もちろん、これは主観的な解釈です。もっといえば勝手な思い込みです。
ところが、主観にはひとつだけいいところがあります。それは、自分の手で選択可能だということです。自分の身長について長所と見るのか、それとも短所と見るのか。いずれも主観に委ねられているからこそ、わたしはどちらを選ぶこともできます。

劣等コンプレックス

人は無力な存在としてこの世に生を受けます。そしてその無力な状態から脱したいと願う、普遍的な欲求を持っています。アドラーはこれを「優越性の追求」と呼びました。

何らかの理想や目標を掲げ、そこに向かって前進している。しかし理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱く。たとえば料理人の方々は、その志が高ければ高いほど「まだまだ未熟だ」「もっと料理を極めなければならない」といった、ある種の劣等感を抱くでしょう。

ところが、一歩踏み出す勇気をくじかれ、「現状は現実的な努力によって変えられる」という事実を受け入れられない人たちがいます。なにもしないうちから「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」と、あきらめてしまう人たちです。

劣等感それ自体は、別に悪いものではない。ここはご理解いただけましたね?アドラーもいうように、劣等感は努力や成長を促すきっかけにもなりうるものです。たとえば、学歴に劣等感を持っていたとしても、そこから「わたしは学歴が低い。だからこそ、他人の何倍も努力しよう」と決心するのだとしたら、むしろ望ましい話です。

アドラーは「見かけの因果律」という言葉で説明しています。本来はなんの因果関係もないところに、あたかも重大な因果関係があるかのように自らを説明し、納得させてしまう、と。

単純に、一歩前に踏み出すことが怖い。また、現実的な努力をしたくない。いま享受している楽しみーーたとえば遊びや趣味の時間ーーを犠牲にしてまで、変わりたくない。つまり、ライフスタイルを変える”勇気”を持ち合わせていない。多少の不満や不自由があったとしても、いまのままでいたほうが楽なのです。

優越コンプレックス

欠如した部分を、どのようにして補償していくか。もっとも健全な姿は、努力と成長を通じて補償しようとすることです。たとえば勉学に励んだり、練習を積んだり、仕事に精を出したりする。
しかし、その勇気を持ちえていない人は、劣等コンプレックスに踏み込んでしまいます。先の例でいうなら「学歴が低いから、成功できない」と考える。さらには「もしも学歴さえ高ければ、自分は容易に成功できるのだ」と、自らの有能さを暗示する。いまはたまたま学歴という蓋に覆い隠されているけれど、「ほんとうのわたし」は優れているのだと。

権威の力を借りて自らを大きく見せている人は、結局他者の価値観に生き、他社の人生を生きている。ここは強く指摘しておかねばならないところです。

苦しんでいる当事者の気持ちを完全に理解することなど、誰にもできません。しかし、自らの不幸を「特別」であるための武器として使っているかぎり、その人は永遠に不幸を必要とすることになります。

優越性の追求

健全な劣等感とは、他者との比較のなかで生まれるのではなく、「理想の自分」との比較から生まれるものです。

前を歩いていようと、後ろを歩いていようと関係ないのです。いわば、縦の軸が存在しない平らな空間を、われわれは歩んでいる。われわれが歩くのは、誰かと競争するためではない。今の自分よりも前に進もうとすることにこそ、価値があるのです。

敵と仲間

「幸せそうにしている他者を、心から祝福することができない」と。それは対人関係を競争で考え、他者の幸福を「わたしの負け」であるかのようにとらえているから、祝福できないのです。
しかし、ひとたび競争の図式から解放されれば、誰かに勝つ必要がなくなります。「負けるかもしれない」という恐怖からも解放されます。他者の幸せを心から祝福できるようになるし、他者の幸せのために積極的な貢献ができるようになるでしょう。その人が困難に陥ったとき、いつでも援助しようと思える他者。それはあなたにとって仲間と呼ぶべき存在です。

権力争い

アドラー的な目的論は、子どもが隠し持っている目的、すなわち「親への復讐」という目的を見逃しません。自分が非行に走ったり、不登校になったり、リストカットをしたりすれば、親は困る。あわてふためき、胃に穴があくほど深刻に悩む。子どもはそれを知った上で、問題行動に出ています。過去の原因(家庭環境)に突き動かされているのではなく、いまの目的(親への復讐)をかなえるために。

「怒りという道具に頼る必要がない」のです。怒りっぽい人は、気が短いのではなく、怒り以外の有用なコミュニケーションツールがあることを知らないのです。

負けたくないとの一心から自らの誤りを認めようとせず、結果的に誤った道を選んでしまう。誤りを認めること、謝罪の言葉を述べること、権力争いから降りること、これらはいずれも「負け」ではありません。
優越性の追求とは、他者との競争によっておこなうものではないのです。

眼鏡が曇って目先の勝ち負けしか見えなくなり、道を間違えてしまう。われわれは競争や勝ち負けの眼鏡を外してこそ、自分を正し、自分を変えていくことができるのです。

人生のタスク

行動面の目標は「自立すること」と「社会と調和して暮らせること」の2つ。そしてこの行動を支える心理面の目標が「わたしには能力がある」という意識、それから「人々はわたしの仲間である」という意識です。

ひとりの個人が、社会的な存在として生きていこうとするとき、直面せざるをえない対人関係。それが人生のタスクです。この「直面せざるをえない」という意味において、まさしく「タスク」なのです。

友達が多いほどいいと思っている人は大勢いますが、はたしてそうでしょうか。友達や知り合いの数には、なんの価値もありません。これは愛のタスクともつながる話ですが、考えるべきは関係の距離と深さなのです。

一緒にいて、どこか息苦しさを感じたり、緊張を強いられるような関係は、恋ではあっても愛とは呼べない。人は「この人と一緒にいると、とても自由に振る舞える」と思てたとき、愛を実感することができます。劣等感を抱くでもなく、優越性を誇示する必要にも駆られず、平穏な、きわめて自然な状態でいられる。ほんとうの愛とは、そういうことです。
一方の束縛とは、相手を支配せんとする心の表れであり、不信感に基づく考えでもあります。自分に不信感を抱いている相手と同じ空間にいて、自然な状態でいることなどできませんよね?アドラーはいいます。「一緒に仲良く暮らしたいのであれば、互いを対等の人格として扱わなければならない」と。

人生の嘘

人はその気になれば、相手の欠点や短所などいくらでも見つけ出すことができる、きわめて身勝手な生き物なのです。たとえ相手が成人君子のような人であったとしても、嫌うべき理由など簡単に発見できます。だからこそ、世界はいつでも危険なところになりうるし、あらゆる他者を「敵」と見なすことも可能なのです。

アドラーは、さまざまな口実を設けて人生のタスクを回避しようとする事態を指して、「人生の嘘」と呼びました。

いま自分が置かれている状況、その責任を誰かに転嫁する。他者のせいにしたり、環境のせいにしたりすることで、人生のタスクから逃げている。先ほどお話した赤面症の女学生も、みな同じです。自分に嘘をつき、また周囲の人々にも嘘をついている。突き詰めて考えると、かなり厳しい言葉です。

第三夜 他者の課題を切り捨てる

承認欲求

ユダヤ教の教えに、こんな言葉があります。「自分が自分のために自分の人生を生きていないのであれば、いったい誰が自分のために生きてくれるだろうか」と。

承認されることを願うあまり、他者が抱いた「こんな人であってほしい」という期待をなぞって生きていくことになる。つまり、ほんとうの自分を捨てて、他者の人生を生きることになる。

課題の分離

勉強することは子どもの課題です。そこに対して親が「勉強しなさい」と命じるのは、他者の課題に対して、いわば土足で踏み込むような行為です。これでは衝突を避けることはできないでしょう。われわれは「これは誰の課題なのか?」という視点から、自分の課題と他者の課題とを分離していく必要があるのです。

無論、精いっぱいの援助はします。しかし、その先にまでは踏み込めない。ある国に「馬を水辺に連れていくことはできるが、水を呑ませることはできない」ということわざがあります。アドラー心理学におけるカウンセリング、また他者への援助全般も、そういうスタンスだと考えてください。本人の意向を無視して「変わること」を強要したところで、あとで強烈な反動がやってくるだけです。

どれだけ子どもの課題を背負い込んだところで、子どもは独立した個人です。親の思い通りになるものではありません。進学先や就職先、あるいは日常の些細な行動でも、自分の希望通りには動いてくれないのです。当然、心配にもなるし、介入したくなることもあるでしょう。でも、先ほどもいいましたよね。「他者はあなたの期待を満たすために生きているのではない」と。たとえ我が子であっても、親の期待を満たすために生きているのではないのです。

信じるという行為もまた、課題の分離なのです。相手のことを信じること。これはあなたの課題です。しかし、あなたの期待や信頼に対して相手がどう動くかは、他者の課題なのです。そこの線引きをしないままに自分の希望を押しつけると、たちまちストーカー的な「介入」になってしまいます。
たとえ相手が自分の希望通りに動いてくれなかったとしてもなお、信じることができるか。愛することができるか。アドラーの語る「愛のタスク」には、そこまでの問いかけが含まれています。

私の提案は、こうです。まずは「これは誰の課題なのか?」を考えましょう。そして課題の分離をしましょう。どこまでが自分の課題で、どこからが他者の課題なのか、冷静に線引きするのです。
そして他者の課題には介入せず、自分の課題には誰ひとりとして介入させない。これは具体的で、なおかつ対人関係の悩みを一変させる可能性を秘めた、アドラー心理学ならではの画期的な視点になります。

対人関係のベースに「見返り」があると、自分はこんなに与えたのだから、あなたもこれだけ返してくれ、という気持ちが湧き上がってきます。もちろんこれは、課題の分離とはかけ離れた発想です。われわれは見返りを求めてもいけないし、そこに縛られてもいけません。

忙しい母親からすると、結べるまで待つよりも自分が結んだほうが早い。でも、それは介入であり、子どもの課題を取り上げてしまっているのです。そして介入がくり返された結果、子どもはなにも学ばなくなり、人生のタスクに立ち向かう勇気がくじかれることになります。アドラーはいいます。「困難に直面することを教えられなかった子どもたちは、あらゆる困難を避けようとするだろう」と。

嫌われる勇気

他者からの承認を選ぶのか、それとも承認なき自由の道を選ぶのか。大切な問題です、一緒に考えましょう。他者の視線を気にして、他者の顔色を窺いながら生きること。他者の望みをかなえるように生きること。たしかに道しるべにはなるかもしれませんが、これは非常に不自由な生き方です。
では、どうしてそんな不自由な生き方を選んでいるのか?あなたは承認欲求という言葉を使っていますが、要するに誰からも嫌われたくないのでしょう。

課題を分離することは、自己中心的になることではありません。むしろ他者の課題に介入することこそ、自己中心的な発想なのです。親が子どもに勉強を強要し、進路や結婚相手にまで口を出す。これなどは自己中心的な発想以外の何物でもありません。

本能的な欲望、衝動的な欲望ということです。では、そうした傾向性のおもむくまま、すなわち欲望や衝動のおもむくまま生きること、坂道を転がる石のように生きることが「自由」なのかというと、それは違います。そんな生き方は欲望や衝動の奴隷でしかない。ほんとうの自由とは、転がる自分を下から押し上げていくような態度なのです。

承認欲求は自然な欲望でしょう。では、他人からの承認を受けるために坂道を転がり続けるのか?転がる石のように自らを摩耗させ、かたちなきところまで丸みを帯びていくのか?そこでできあがった球体は「ほんとうのわたし」だといえるのか?そんなはずありません。

きっとあなたは、自由とは「組織からの解放」だと思っていたのでしょう。家族や学校、会社、また国家などから飛び出すことが、自由なのだと。しかし、たとえ組織を飛び出したところでほんとうの自由は得られません。他者の評価を気にかけず、他者から嫌われることを怖れず、承認されないかもしれないというコストを支払わないかぎり、自分の生き方を貫くことはできない。つまり、自由になれないのです。

対人関係のカード

父は無口で気むずかしい人でしたからね。しかし、「あのとき殴られたから関係が悪くなった」と考えるのは、フロイト的な、原因論的な発想です。
アドラー的な目的論の立場に立てば、因果律の解釈は完全に逆転します。つまり、わたしは「父との関係をよくしたくないために、殴られた記憶を持ち出していた」のです。

多くの人は、対人関係のカードは他者が握っていると思っています。だからこそ「あの人は自分のことをどう思っているんだろう?」と気になるし、他者の希望を満たすような生き方をしてしまう。でも、課題の分離が理解できれば、すべてのカードは自分が握っていることに気がつくでしょう。これは新しい発見です。

そんなある日、いつものように介護するわたしに、父が「ありがとう」といいました。父のボギャブラリーにそんな言葉があることを知らなかったわたしは大いに驚き、これまでの日々に感謝しました。長い介護生活を通じて、わたしは自分にできること、つまり父を水辺に連れていくことまではやったつもりです。そして最終的に父は、水を呑んでくれた。私はそう思っています。

第四夜 世界の中心はどこにあるか

個人心理学

個人心理学のことを英語では、「individual psychology」といいます。そしてこの個人(individual)という言葉は、語源的に「分割できない」という意味を持っています。
要するに、これ以上分けられない最小単位だということです。それでは具体的に、何が分割できないのか?アドラーは精神と身体を分けて考えること、理性と感情を分けて考えること、そして意識と無意識を分けて考えることなど、あらゆる二元論的価値観に反対しました。

カッとなって他者を怒鳴りつけたとき、それは「全体としてのわたし」が怒鳴ることを選んだのです。決して感情という独立した存在がーーいわばわたしの意向とは無関係にーー怒鳴り声を上げさせたとは考えません。ここで「わたし」と「感情」を切り離し、「感情がわたしをそうさせたのだ、感情に駆られてしまったのだ」と考えてしまうと、容易に人生の嘘へとつながっていきます。

共同体感覚

もしも他者が仲間だとしたら、仲間に囲まれて生きているとしたら、われわれはそこに自らの「居場所」を見出すことができるでしょう。さらには、仲間たちーーつまり共同体ーーのために貢献しようと思えるようになるでしょう。このように、他者を仲間だと見なし、そこに「自分の居場所がある」と感じられることを、共同体感覚といいます。

自己中心的

承認欲求の内実を考えてください。他者はどれだけ自分に注目し、自分のことをどう評価しているのか?つまり、どれだけ自分の欲求を満たしてくれるのか?・・・・こうした承認欲求にとらわれている人は、他者を見ているようでいて、実際には自分のことしか見ていません。他者への関心を失い、「わたし」にしか関心がない。すなわち、自己中心的なのです。

われわれはみな「ここにいてもいいんだ」という所属感を求めている。しかしアドラー心理学では、所属感とはただそこにいるだけで得られるものではなく、共同体に対して自らが積極的にコミットすることによって得られるのだと考えます。

もしあなたが「世界の中心」なのだとしたら、あなたは共同体へのコミットなど露ほども考えないでしょう。あらゆる他者は「わたしのためになにかをしてくれる人」であり、自分から動く必要などないのですから。
しかし、あなたもわたしも世界の中心にいるわけではない。自分の足で立ち、自分の足で対人関係のタスクに踏み出さなければならない。「この人はわたしになにを与えてくれるのか?」ではなく、「わたしはこの人になにを与えられるか?」を考えなければならない。それが共同体へのコミットです。

複数の共同体

目の前の共同体だけに縛られず、自分がそれとは別の共同体、もっと大きな共同体、たとえば国や地域社会に属し、そこにおいてもなんらかの貢献ができているという気づきを得てほしいのです。

もしも学校に居場所がないのなら、学校の「外部」に別の居場所を見つければいい。転校するのもいいし、退学したってかまわない。退学届一枚で縁が切れる共同体など、しょせんその程度のつながりでしかありません。
ひとたび世界の大きさを知ってしまえば、自分が学校に感じていた苦しみが、「コップの中の嵐」であったことがわかるでしょう。コップの外に出てしまえば、吹き荒れていた嵐もそよ風に変わります。

われわれが対人関係のなかで困難にぶつかったとき、出口が見えなくなってしまったとき、まず考えるべきは「より大きな共同体の声を聴け」という原則です。

横の関係について

われわれが他者をほめたり叱ったりするのは「アメを使うか、ムチを使うか」の違いでしかなく、背後にある目的は操作です。アドラー心理学が賞罰教育を強く否定しているのは、それが子どもを操作するためだからなのです。

勇気づけ

なぜ人は介入してしまうのか?その背後にあるのも、じつは縦の関係なのです。対人関係を縦でとらえ、相手を自分より低く見ているからこそ、介入してしまう。介入によって、相手を望ましい方向に導こうとする。自分は正しくて相手は間違っていると思い込んでいる。

援助とは、大前提に課題の分離があり、横の関係があります。勉強は子どもの課題である、と理解した上で、できることを考える。具体的には、勉強しなさいと上から命令するのではなく、本人に「自分は勉強ができるのだ」と自信を持ち、自らの力で課題に立ち向かっていけるように働きかけるのです。

こうした横の関係に基づく援助のことを、アドラー心理学では「勇気づけ」と呼んでいます。

人が課題を前に踏みとどまっているのは、その人に能力がないからではない。能力の有無ではなく、純粋に「課題に立ち向かう”勇気”がくじかれていること」が問題なのだ、と考えるのがアドラー心理学です。そうであれば、くじかれた勇気を取り戻すことが先決でしょう。

いちばん大切なのは、他者を「評価」しない、ということです。評価の言葉とは、縦の関係から出てくる言葉です。もしも横の関係を築けているのなら、もっと素直な感謝や尊敬、喜びの言葉が出てくるでしょう。

どうすれば人は”勇気”を持つことができるのか?アドラーの見解はこうです。「人は、自分には価値があると思えたときにだけ、勇気を持てる」。

共同体、つまり他者に働きかけ、「わたしは誰かの役に立っている」と思えること。他者から「よい」と評価されるのではなく、自らの主観によって「わたしは他者に貢献できている」と思えること。そこではじめて、われわれは自らの価値を実感することができるのです。いままで議論してきた「共同体感覚」や「勇気づけ」の話も、すべてはここにつながります。

他者のことを「行為」のレベルではなく、「存在」のレベルで見ていきましょう。他者が「なにをしたか」で判断せず、そこに存在していること、それ自体を喜び、感謝の言葉をかけていくのです。

たとえば、引きこもっている子どもが、食事の後に洗い物を手伝っていたとします。このとき「そんなことはいいから、学校に行きなさい」といってしまうのは、理想の子ども像から引き算している親の言葉です。そんなことをしていたら、ますます子どもの勇気をくじく結果になるでしょう。
しかし、素直に「ありがとう」と声をかけることができれば、子どもは自らの価値を実感し、新しい一歩を踏み出すかもしれません。

「誰かが始めなければならない。他の人が協力的でないとしても、それはあなたには関係ない。わたしの助言はこうだ。あなたが始めるべきだ。他の人が協力的であるかどうかなど考えることなく」

横の関係

縦の関係を築くか、それとも横の関係を築くか。これはライフスタイルの問題であり、人間は自らのライフスタイルを臨機応変に使い分けられるほど器用な存在ではありません。要は「この人とは対等に」「こっちの人とは上下関係で」とはならないのです。

逆にいえば、もしも誰かひとりでも横の関係を築くことができたなら、ほんとうの意味で対等な関係を築くことができたなら、それはライフスタイルの大転換です。そこを突破口にして、あらゆる対人関係が「横」になっていくでしょう。

会社組織であれば、職責の違いは当然あります。誰とでも友達付き合いをしなさい、親友のように振る舞いなさい、といっているのではありません。そうではなく、意識の上で対等であること、そして主張すべきは堂々と主張することが大切なのです。

あなたには断る余地もあるのだし、もっといい方法を提案する余地もあったはずです。あなたはただ、そこにまつわる対人関係の軋轢を避けるために、そして責任を回避するために「断る余地がない」と思っているのですし、縦の関係に従属しているのです。

あなたはいま、わたしと横の関係を築けています。ご自分の考えを堂々と主張されている。あれこれむずかしいことは考えず、ここからはじめればいいのです。

第五夜 「いま、ここ」を真剣に生きる

自己受容

課題の分離もそうですが、「変えられるもの」と「変えられないもの」を見極めるのです。われわれは「なにが与えられているか」について、変えることはできません。しかし、「与えられたものをどう使うか」については、自分の力によって変えていくことができます。だったら「変えられないもの」に注目するのではなく、「変えられるもの」に注目するしかないでしょう。わたしのいう自己受容とはそういうことです。

他者信頼

あなたはいま、しきりに「裏切られたとき」のことばかり心配している。そこで受ける傷の痛みにばかり注目している。しかし、信頼することを怖れていたら、結局は誰とも深い関係を築くことができないのです。

他者貢献

共同体感覚とは自己受容と他者信頼だけで得られるものではありません。そこには3つ目のキーワードである「他者貢献」が必要になってきます。

われわれは、自分の存在や行動が共同体にとって有益だと思えたときにだけ、つまりは「わたしは誰かの役に立っている」と思えたときにだけ、自らの価値を実感することができる。そうでしたね?
つまり他者貢献とは、「わたし」を捨てて誰かに尽くすことではなく、むしろ「わたし」の価値を実感するためにこそ、なされるものなのです。

たとえ家族から「ありがとう」の言葉が聞けなかったとしても、食器を片づけながら「わたしは家族の役に立てている」と考えてほしいのです。他者がわたしになにをしてくれるかではなく、わたしが他者になにをできるかを考え、実践していきたいのです。その貢献感さえ持てれば、目の前の現実はまったく違った色彩を帯びてくるでしょう。

どうしてここで貢献感が持てるのか?これは家族のことを「仲間」だと思えているからです。そうでなければ、どうしたって「なぜわたしだけが?」「なぜみんな手伝ってくれないのか?」という発想になってしまいます。
他者を「敵」だと見なしたままおこなう貢献は、もしかすると偽善につながるのかもしれません。しかし、他者が「仲間」であるのなら、いかなる貢献も偽善にはならないはずです。あなたがずっと偽善という言葉にこだわっているのは、まだ共同体感覚を理解できていないからです。

アドラー心理学をほんとうに理解して、生き方まで変わるようになるには、「それまで生きてきた年数の半分」が必要になるとさえ、いわれています。

人生の調和

神経症的なライフスタイルを持った人は、なにかと「みんな」「いつも」「すべて」といった言葉を使います。「みんな自分を嫌っている」とか「いつも自分だけが損をする」とか「すべて間違っている」というように。もし、あなたがこれら一般化の言葉を口癖としているようなら、注意が必要です。

対人関係がうまくいかないのは、吃音のせいでも、赤面症のせいでもありません。ほんとうは自己受容や他者信頼、または他者貢献ができていないことが問題なのに、どうでもいいはずのごく一部だけ焦点を当てて、そこから世界全体を評価しようとしている。それは人生の調和を欠いた、誤ったライフスタイルなのです。

誰にでも自分が生産者の側でいられなくなるときがやってきます。たとえば年をとって、定年退職して、年金や子どもたちの援助によっていきざるをえなくなる。あるいは若かったとしても、怪我や病気によって、働くことができなくなる。このとき、「行為のレベル」でしか自分を受け入れられない人たちは深刻なダメージを受けることになるでしょう。

自分を「行為のレベル」で受け入れるのか、それとも「存在のレベル」で受け入れるか。これはまさに「幸せになる勇気」に関わってくる問題でしょう。

幸福

「幸福とは、貢献感である」

いまや人が承認を求める理由は明らかでしょう。人は自分を好きになりたい。自分には価値があるのだと思いたい。そのためには「わたしは誰かの役に立っている」という貢献感がほしい。そして貢献感を得るための身近な手段として、他者からの承認を求めているのです。

自己実現

多くの子どもたちは、最初の段階で「特別によくあろう」とします。具体的には、親のいいつけを守って、社会性をもった振る舞いをし、勉強やスポーツ、習いごとなどに精を出す。そうやって親から認めてもらおうとする。
しかし、特別によくあることがかなわなかった場合ーーたとえば勉強やスポーツがうまくいかなかった場合ーー今度は一転して「特別に悪くあろう」とします。

普通であることの勇気

なぜ「特別」になる必要があるのか?それは「普通の自分」が受け入れられないからでしょう。だからこそ、「特別によくある」ことがくじかれたとき、「特別に悪くある」ことへと極端な飛躍をしてしまうのです。

人生

人生を登山のように考えている人は、自らの生を「線」としてとらえています。この世に生を受けた瞬間からはじまった線が、大小さまざまなカーヴを描きながら頂点に達し、やがて死という終点を迎えるのだと。しかし、こうして人生を物語のようにとらえる発想は、フロイト的な原因論にもつながる考えであり、人生の大半を「途上」としてしまう考え方なのです。

ダンスにおいては、踊ることそれ自体が目的であって、ダンスによってどこかに到達しようとは誰も思わないでしょう。無論、踊った結果としてどこかに到達することはあります。踊っているのですから、その場にとどまることはありません。しかし、目的地は存在しないのです。

人生全体にうすらぼんやりとした光を当てているからこそ、過去や未来が見えてしまう。いや、見えるような気がしてしまう。しかし、もしも「いま、ここ」に強烈なスポットライトを当てていたら、過去も未来も見えなくなるでしょう。

人生は連続する刹那であり、過去も未来も存在しません。あなたは過去や未来を見ることで、自らに免罪符を与えようとしている。過去にどんなことがあったかなど、あなたの「いま、ここ」にはなんの関係もないし、未来がどうであるかなど「いま、ここ」で考える問題ではない。「いま、ここ」を真剣に生きていたら、そんな言葉など出てこない。

人生における最大の嘘、それは「いま、ここ」を生きないことです。過去を見て、未来を見て、人生全体にうすらぼんやりとした光を当てて、なにか見えたつもりになることです。あなたはこれまで、「いま、ここ」から目を背け、ありもしない過去と未来ばかりに光を当ててこられた。自分の人生に、かけがえのない刹那に、大いなる嘘をついてこられた。

アドラーは「一般的な人生の意味はない」と語ったあと、こう続けています。「人生の意味は、あなたが自分自身に与えるものだ」と。

旅人が北極星を頼りにするように、われわれの人生にも「導きの星」が必要になる。それがアドラー心理学の考え方です。この指針さえ見失わなければいいのだ、こちらの方向に向かって進んでいれば幸福があるのだ、という巨大な理想になります。

あなたがどんな刹那を送っていようと、たとえあなたを嫌う人がいようと、「他者に貢献するのだ」という導きの星さえ見失わなければ、迷うことはないし、なにをしてもいい。嫌われる人には嫌われ、自由に生きてかまわない。

「わたし」が変われば「世界」が変わってしまう。世界とは、他の誰かが変えてくれるものではなく、ただ「わたし」によってしか変わりえない。