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幸せになる勇気

幸せになる勇気
岸見 一郎、古賀 史健

人は誰でも、いまこの瞬間から幸せになることができる。これは魔法でもなんでもない、厳然たる事実です。あなたも、他のどんな人も、幸福へと踏み出すことができます。ただし幸福とは、その場に留まっていて享受できるものではありません。踏み出した道を歩み続けなければならない。

第一部 悪いあの人 かわいそうなわたし

アドラー心理学は宗教なのか

すべての知を知り尽くし、完全なる「知者」になってしまったら、その人はもはや愛知者(哲学者)ではありません。近代哲学の巨人カントは、「われわれは哲学を学ぶことはできない。哲学することを学べるだけである」と語っています。
哲学は学問というより、生きる「態度」なのです。おそらく宗教は、神の名の下に「すべて」を語るでしょう。全知全能の神と、その神から託された教えを語るでしょう。これは哲学と、本質的に相容れない考え方です。

教育が目標とするところ、一言でいうとそれは「自立」です。
アドラー心理学では、人はみな、無力な状態から脱し、より向上していきたいという欲求、つまり「優越性の追求」を抱えて生きる存在だと考えます。よちよち歩きの赤ちゃんが、二本足で立つようになり、言葉を覚え、周囲の人々と意思の疎通を図れるようになっていく。つまり、人はみな「自由」を求め、無力で不自由な状態からの「自立」を求めている。これは根源的な欲求です。

子どもたちが社会的に「自立」するにあたっては、さまざまなことを知っていかなければなりません。あなたの言う、社会性や正義、それから知識などもそうでしょう。無論、知らないことについては、それを知る他者が教えなければならない。周囲にいる人間が援助していかなければならない。教育とは「介入」ではなく、自立に向けた「援助」なのです。

もしも「自立」という目標を置き去りにしてしまったら、教育やカウンセリング、あるいは仕事の指導も、すぐさま強要へと変貌します。
われわれは自らの役割に自覚的であらねばなりません。教育が強制的な「介入」に転落するのか、自立を促す「援助」に踏みとどまるのか。それは教育する側、カウンセリングする側、指導する側の姿勢にかかっているのです。

勇気は伝染し、尊敬も伝染する

どれだけ生徒から慕われようと、学力を伸ばせない教育者は、教員失格の烙印を押されます。そんなもの、お友達集団の赤字企業と一緒だ!そして、生徒たちの首根っこを押さえつけてでも学力向上に貢献した教育者は、拍手喝采を浴びるわけです。

「変われない」ほんとうの理由

あなたが人生に思い悩んでいるとしましょう。自分を変えたがっているとしましょう。しかし、自分を変えるとは、「それまでの自分」に見切りをつけ、「それまでの自分」を否定し、「それまでの自分」が二度と顔を出さないよう、いわば墓石の下に葬り去ることを意味します。そこまでやってようやく、「あたらしい自分」として生まれ変わるのですから。
では、いくら現状に不満があるとはいえ、「死」を選ぶことができるのか。底の見えない闇に身を投げることができるのか。・・・これは、そう簡単な話ではありません。
だから人は変わろうとしないし、どんなに苦しくとも「このままでいいんだ」と思いたい。そして現状を肯定するための、「このままでいい」材料を探しながら生きることになるのです。

過去とは、取り戻すことのできないものではなく、純粋に「存在していない」のです。そこまで踏み込まない限り、目的論の本質には迫れません。

あなたの「いま」が過去を決める

たとえば、ある国で武装集団がクーデターを画策したとします。鎮圧され、クーデターが失敗に終わった場合、彼らは逆賊として歴史に汚名を残すでしょう。一方、クーデターが成功し、政権が打倒された場合、彼らは圧政に立ち向かった英雄として歴史に名を残します。
われわれ個人も同じです。人間は誰もが「わたし」という物語の編纂者であり、その過去は「いまのわたし」の正統性を証明すべく、自由自在に書き換えられていくのです。

自分は犬に噛まれたのか。それとも他者に助けてもらったのか。アドラー心理学が「使用の心理学」とされる所以は、この「自らの生を選びうる」と言う点にあります。過去が「いま」を決めるのではありません。あなたの「いま」が、過去を決めているのです。

アドラー心理学に「魔法」はない

われわれが語り合うべきは、まさにこの一点、「これからどうするか」なのです。「悪いあの人」などいらない。「かわいそうなわたし」も必要ない。あなたがどんなに大きな声でそれを訴えても、わたしは聞き流すでしょう。
冷淡さゆえに聞き流すのではありません。そこに語り合うべきことが存在しないから、聞き流すのです。

第二部 なぜ「賞罰」を否定するのか

叱ってはいけない、ほめてもいけない

子どもたちはしばしば、こうして戯れに昆虫を殺めるような残虐性を見せます。しかし、ほんとうに子どもは残虐なのでしょうか?たとえばフロイトの言う「攻撃欲動」のようなものを隠し持っているのでしょうか?わたしはそうは思いません。子どもたちは残虐なのではなく、ただ「知らない」のです。命の価値を、そして他者の痛みを。
だとしたら、大人たちのやるべきことはひとつです。知らないのであれば、教える。そして教えるにあたって、叱責の言葉はいらない。この原則を忘れないでください。その人は悪事を働いているのではなく、ただ知らなかっただけなのですから。

問題行動の「目的」はどこにあるか

人間の問題行動は、すべてこのいずれかの段階に該当します。エスカレートしてしまわないうちに、なるべく早い段階で対策を講じなければなりません。

問題行動の第一段階、それは「称賛の欲求」です。

彼らの目的は、あくまでも「ほめてもらうこと」であり、さらに言えば「共同体のなかで特権的な地位を得ること」なのです。

彼らは「いいこと」をしているのではありません。ただ「ほめられること」をしているだけなのです。そして、誰からも褒められないのなら、特別視されないのなら、こんな努力に意味はない。そうやって途端に意欲を失います。
彼らは「ほめてくれる人がいなければ、適切な行動をしない」のだし、「罰を与える人がいなければ、不適切な行動もとる」というライフスタイル(世界観)を身につけていくのです。

「特別」でなくとも価値があるのだと、教えていくのです。「尊敬」を示すことによって。
なにか「いいこと」をしたときに注目するのではなく、もっと日頃の些細な言動に目を向ける。そして、その人の「関心事」に注目し、共感を寄せていく。

問題行動の第二段階は「注目喚起」です。

せっかく「いいこと」をしたのに、ほめられない。学級のなかで特権的な地位を得るまでには至らない。あるいはそもそも、「ほめられること」をやり遂げるだけの勇気や根気が足りない。そういうとき、人は「ほめられなくてもいいから、とにかく目立ってやろう」と考えます。

存在を無視されるくらいなら、叱られるほうがずっといい。たとえ叱られるというかたちであっても、存在を認め、特別な地位に置いてほしい。それらが彼らの願いです。

わたしを憎んでくれ!見捨ててくれ!

問題行動の第三段階は「権力争い」です。

一言で言うなら「反抗」です。親や教師を、口汚い言葉で罵って挑発する。癇癪を起こして暴れることもありますし、万引きや喫煙に走るなど、平然とルールを破ります。

多くの親や教師たちは、ここで怒りのラケットを手に取り、叱責というボールを打ち返します。しかしそれは、挑発に乗り「相手と同じコートに立つこと」でしかありません。彼らは嬉々として次なる反抗のボールを打ち返してくるでしょう。自分の仕掛けたラリーがはじまったのだと。

問題行動の第四段階は「復讐」です。

称賛の欲求、注目喚起、そして権力争い。これらはすべて「もっとわたしを尊重してほしい」という愛を乞う気持ちの表れです。ところが、そうした愛の希求が叶わないと知った瞬間、人は一転して「憎しみ」を求めるようになるのです。

復讐の段階に入った子どもたちは、正面きって戦うことを選びません。彼らは「悪いこと」を目論むのではなく、ひたすら「相手が嫌がること」を繰り返すのです。

自傷行為や引きこもりも、アドラー心理学では「復讐」の一環なのだと考えます。自らを傷つけ、自らの価値を毀損していくことで「こんな自分になってしまったのは、お前のせいだ」と訴えるのです。当然、親御さんは心配するし、胸を引き裂かれるような思いに駆られるでしょう。子どもたちにしてみれば、復讐が成功していることになります。

もし、あなたの学級にそのような生徒がいるとしたら、あなたにできることはなにもありません。彼らの目的は「あなたへの復讐」です。あなたが手を差し伸べようとすればするほど、復讐の機会がきたとばかりに言動をエスカレートさせていきます。こうなったらもう、利害関係のない、まったくの第三者に助けを求めるしかない。

問題行動の第五段階は「無能の証明」です。

人生に絶望し、自分のことを心底嫌いになり、自分には何も解決できないと信じ込むようになる。そしてこれ以上の絶望を経験しないために、あらゆる課題から逃げ回るようになる。周囲に対しては「自分はこれだけ無能なのだから、課題を与えないでくれ。自分にはそれを解決する能力がないのだ」と表明するようになる。

彼らは、自分がいかに無能であるか、ありとあらゆる手を使って「証明」しようとします。あからさまな愚者を演じ、なにごとにも無気力になり、どんな簡単な課題にも取り組もうとしなくなる。やがて自分でも「愚者としてのわたし」を信じ込むようになる。

親や教師が手を差し伸べようとすればするほど、彼らはより極端なやり方で「無能の証明」を図るでしょう。残念ながら、あなたにできることはありません。専門家に頼るしかないでしょう。もっとも、無能の証明をはじめた子どもたちを援助していくことは、専門家にとってもかなり困難な道です。

「罰」があれば、「罪」はなくなるか

まずは、称賛を求め、次に注目されんと躍起になり、それがかなわなければ権力争いを挑み、今度は悪質な復讐に転じる。そして最終的には、己の無能さを誇示する。
そしてそのすべては「所属感」、つまり「共同体のなかに特別な地位を確保すること」という目的に根差している。

暴力という名のコミュニケーション

あなたは生徒たちに「原因」ばかりを聞いている。そこをいくら掘り下げても、責任放棄と言い訳の言葉しか出てきません。あなたのやるべきことは、彼らの「目的」に注目し、彼らと共に「これからどうするか」を考えることなのです。

暴力に訴えてしまえば、時間も労力もかけないまま、自分の要求を押し通すことができる。もっと直接的に言えば、相手を屈服させることができる。暴力とは、どこまでもコストの低い、安直なコミュニケーションなのです。

誰かと議論していて、雲行きが怪しくなってくる。劣勢に立たされる。あるいは議論の最初から、自らの主張が合理性を欠くことを自覚している。
このようなとき、暴力とまではいかなくとも、声を荒げたり、机を叩いたり、また涙を流すなどして相手を威圧し、自分の主張を押し通そうとする人がいます。これらの行為もまた、コストの低い「暴力的」なコミュニケーションだと考えねばなりません。

子どもたちの問題行動を前にしたとき、親や教育者はなにをすべきなのか?アドラーは「裁判官の立場を放棄せよ」と語っています。あなたは裁きを下す特権など与えられていない。法と秩序を守るのは、あなたの仕事ではないのです。
今あなたが守るべきは法でも秩序でもなく「目の前の子供」、問題行動を起こした子どもです。教育者とはカウンセラーであり、カウセリングとは「再教育」である。最初に話しましたね?カウンセラーが銃を構えるなど、おかしな話でしょう。

自分の人生は、自分で選ぶことができる

人間が未成年の状態にあるのは、理性がかけているのではない。他者の指示を仰がないと自分の理性を使う決意も勇気も持てないからなのだ。つまり人間は自らの責任において未成年の状態にとどまっていることになる。

生徒からの感謝を期待するのではなく、「自立」という大きな目標に自分は貢献できたのだ、という貢献感を持つ。貢献感のなかに幸せを見出す。それしかありません。
3年前にも申し上げたはずです。幸福の本質は「貢献感」なのだと。もしあなたが、生徒たちから感謝されたがっているのだとしたら。「先生のおかげで」という言葉を待っているのだとしたら。・・・それは結果として、生徒たちの自立を妨げているのだと思ってください。

「それは自分で決めていいんだよ」と教えること。自分の人生は、日々の行いは、すべて自分で決定するものなのだと教えること。そして決めるにあたって必要な材料ーーたとえば知識や経験ーーがあれば、それを提供していくこと。それが教育者のあるべき姿なのです。

子どもたちの決断を尊重し、その決断を援助するのです。そしていつでkも援助する用意があることを伝え、近すぎない、援助ができる距離で、見守るのです。たとえその決断が失敗に終わったとしても、子どもたちは「自分の人生は、自分で選ぶことができる」という事実を学んでくれるでしょう。

第三部 競争原理から協力原理へ

「わたしであること」の勇気

アドラー心理学では、人間の抱えるもっとも根源的な欲求は、「所属感」だと考えます。つまり、孤立したくない。「ここにいてもいいんだ」と実感したい。孤立は社会的な死に繋がり、やがて生物的な死にもつながるのですから。では、どうすれば所属感を得られるのか?
・・・共同体のなかで、特別な地位を得ることです。「その他大勢」にならないことです。

承認には、終わりがないのです。他者からほめられ、承認されること。これによって、つかの間の「価値」を実感することはあるでしょう。しかし、そこで得られる喜びなど、しょせん外部から与えられたものにすぎません。他者にねじを巻いてもらわなければ動けない、ぜんまい仕掛けの人形とかわらないのです。

「わたし」の価値を、他者に決めてもらうこと。それは依存です。一方、「わたし」の価値を、自らが決定すること。これを「自立」と呼びます。幸福な生がどちらの先にあるか、答えは明らかでしょう。あなたの価値を決めるのは、ほかの誰かではないのです。

いいですか、「人と違うこと」に価値を置くのではなく、「わたしであること」に価値を置くのです。それがほんとうの個性というものです。「わたしであること」を認めず、他者と自分を引き比べ、その「違い」ばかり際立たせようとするのは、他者を欺き、自分に嘘をつく生き方に他なりません。

その問題行動は「あなた」に向けられている

その生徒は、「あなたに見せる顔」の仮面を被ったときに、ほかの誰でもない「あなた」に向かって、その問題行動を繰り返しているのです。親の問題ではありません。ひとえに、あなたと生徒の関係のなかで生じた問題なのです。
あなたの目の前で。あなたの視界に入る時を選んだ上で。家庭ではない別の「世界」に、すなわち教室に、居場所を求めている。あなたは尊敬を通じて、その居場所を示していかなければなりません。

なぜ人は「救世主」になりたがるのか

自立という言葉を聞いたとき、それを経済的な側面ばかりから考える人がいます。しかし、たとえ10歳の子どもであっても、自立することはできる。50歳や60歳であっても、自立できていない人もいる。自立とは、精神の問題なのです。

不幸を抱えた人間による救済は、自己満足を脱することがなく、誰ひとりとして幸せにしません。実際、あなたは子どもたちの救済に乗り出しながら、いまだ不幸の只中にいる。自分の価値を実感することだけを願っている。だとすれば、これ以上教育論をぶつけ合っても意味がない。まずは、あなたが自らの手で幸せを獲得すること。そうしないことには、ここでの議論はすべて不毛な、ただの罵り合いに終わりかねません。

教育とは「仕事」ではなく「交友」

アドラーは、彼女がはじめて言葉を発したとき、「わたしは彼女の友人である」と感じたといいます。そして理由もなく殴られたときも、ただ「友好的な目」で見つめていたのだそうです。つまりアドラーは、仕事として、職業人として彼女と向き合っていたのではなく、ひとりの友人として向き合っていたのです。

第四部 与えよ さらば与えられん

すべての喜びもまた、対人関係の喜びである

アドラーの語る「すべての悩みは、対人関係の悩みである」という言葉の背後には、「すべての喜びもまた、対人関係の喜びである」という幸福の定義が隠されているのです。

「信用」するか?「信頼」するか?

仕事の関係とは「信用」の関係であり、交友の関係とは「信頼」の関係なのです。

交友には「この人と交友しなければならない理由」が、ひとつもありません。利害もなければ、外的要因によって強制される関係でもない。あくまでも「この人が好きだ」という内発的な動機によって結ばれていく関係です。

なぜ「仕事」が、人生のタスクになるのか

アドラーにとって、働くことの意味はシンプルでした。仕事とは、地球という厳しい自然環境を生き抜いていくための生産手段である。つまり仕事を、かなり「生存」に直結した課題だと考えていました。

人間はひとりでは生きていけないのです。孤独に耐えられないとか、話し相手がほしいとかいう以前に、生存のレベルで生きていけない。そして他者と「分業」するためには、その人のことを信じなければならない。疑っている相手とは、協力することができない。

いかなる職業にも貴賤はない

大切なのは「誰ひとりとして自分を犠牲にしていない」ということです。つまり、純粋な利己心の組み合わせが、分業を成立させている。利己心を追求した結果、一定の経済秩序が生まれる。これがアダム・スミスの考えた分業です。

原則として、分業の関係においては個々人の「能力」が重要視される。たとえば企業の採用にあたっても、能力の高さが判断基準になる。これは間違いありません。しかし、分業をはじめてからの人物評価、また関係のあり方については、能力だけで判断されるものではない。むしろ「この人と一緒に働きたいか?」が大切になってくる。そうでないと、互いに助け合うことはむずかしくなりますからね。
そうした「この人と一緒に働きたいか?」「この人が困ったとき、助けたいか?」を決める最大の要因は、その人の誠実さであり、仕事に取り組む態度なのです。

大切なのは「与えられたものをどう使うか」

周囲のあらゆる人について「あの人のここが嫌いだ」「この人のこういうところが我慢ならない」と避難する人がいます。そして嘆くわけです。「ああ、わたしは不運だ。わたしは出会いに恵まれていない」と。
このような人たちは、ほんとうに出会いに恵まれていないのでしょうか?違います。断固として、違います。仲間に恵まれないのではなく、ただ仲間をつくろうとしていないだけ、つまりは対人関係に踏み出そうとしていないだけなのです。

先に「信じる」こと

他人を信じること。これはなにかを鵜呑みにする、受動的な行為ではありません。ほんとうの信頼とは、どこまでも能動的な働きかけなのです。

子供のことを信頼していない親が、あれこれと注意をするとき。仮にその言葉が正論であったとしても、子どもたちには届きません。むしろ、正論であればあるほど反発したくなるでしょう。なぜ反発するのか?親がちっとも自分のことを見ておらず、自分に不信感を抱いたまま、お仕着せの説教をしてくるからです。

人と人とは、永遠にわかり合えない

自己中心的な人は、「自分のことが好き」だから、自分ばかり見ているのではありません。実相は全く逆で、ありのままの自分を受け入れることができず、絶え間なき不安にさらされているからこそ、自分にしか関心が向かないのです。

原則論から言えば、仕事によって認められるのは、あなたの「機能」であって、「あなた」ではない。より優れた「機能」の持ち主が現れれば、周囲はそちらになびいていきます。それが市場原理、競争原理というものです。結果、あなたはいつまでも競争の渦から抜け出すことができず、ほんとうの意味での所属感を得ることもないでしょう。

人生は「なんでもない日々」が試練となる

マザー・テレサは「世界平和のために、われわれはなにをすべきですか?」と問われ、こう答えました。「家に帰って、家族を大切にしてあげてください」。アドラーの共同体感覚も同じです。世界平和のためになにかをするのではなく、まずは目の前の人に、信頼を寄せる。目の前の人と、仲間になる。そうした日々のちいさな信頼の積み重ねが、いつか国家間の争いさえもなくしていくのです。

第五部 愛する人生を選べ

愛は「落ちる」ものではない

「落ちる」だけの愛なら、誰にでもできます。そんなものは、人生のタスクと呼ぶに値しない。意思の力によって、なにもないところから築き上げるものだからこそ、愛のタスクは困難なのです。
多くの人は、この原則を知らないまま愛を語ろうとします。だから、人間には関知しえない「運命」や、動物的な「本能」といった言葉に頼らざるをえなくなる。自分にとっていちばん大切なはずの課題を、意思や努力の枠外にあるものとして、直視しないでいる。もっと言えば「愛すること」をしていない。

「愛される技術」から「愛する技術」へ

実際に手に入れてしまうと、半年としないうちに飽きてしまう。どうして手に入れた瞬間に飽きるのか?あなたはドイツ製のカメラで「撮影したかった」のではありません。それを獲得し、所有し、征服したかっただけなのです。・・・あなたの語る「落ちる愛」は、この所有欲や征服欲となんら変わりがありません。

愛とは「ふたりで成し遂げる課題」である

アドラーは言います。「われわれは、ひとりで成し遂げる課題、あるいは20人で成し遂げる仕事については、教育を受けている。しかし、ふたりで成し遂げる課題については、教育を受けていない」と。

人生の「主語」を切り換えよ

われわれは生まれてからずっと、「わたし」の目で世界を眺め、「わたし」の耳で音を聞き、「わたし」の幸せを求めて人生を歩みます。これはすべての人がそうです。しかし、ほんとうの愛を知ったとき、「わたし」だった人生の主語は、「わたしたち」に変わります。利己心でもなければ利他心でもない、まったくあたらしい指針の下に生きることになるのです。
幸福なる生を手に入れるために、「わたし」は消えてなくなるべきなのです。

自立とは、「わたし」からの脱却である

「弱さ」とは、対人関係において恐ろしく強力な武器になる。これはアドラーが臨床に基づいた深い洞察の末にたどりついた、重大な発見です。

かつて彼らは、ほしいもののすべてを与えられる黄金時代に生きていた。そして彼らのなかのある者は、依然としてこう感じている。十分長く泣き、十分抗議し、協力することを拒めば、再びほしいものを手に入れられるだろう、と。彼らは人生と社会を全体として見ず、自らの個人的な利益にしか焦点を合わせない。
彼らのような生き方を選ぶのは、子どもだけではありません。多くの大人たちもまた、自分の弱さや不幸、傷、不遇なる環境、そしてトラウマを「武器」として、他者をコントロールしようと目論みます。心配させ、言動を束縛し、支配しようとするのです。

全ての人間は、過剰なほどの「自己中心性」から出発する。そうでなくては生きていけない。しかしながら、いつまでも「世界の中心」に君臨することはできない。世界と和解し、自分は世界の一部なのだと了解しなければならない。
自立とは、「自己中心性からの脱却」なのです。

人間は、変わることができます。そのライフスタイルを、世界観や人生観を、変えることができます。そして愛は、「わたし」だった人生の主語を、「わたしたち」に変えます。われわれは愛によって「わたし」から解放され、自立を果たし、ほんとうの意味で世界を受け入れるのです。

その愛は「誰」に向けられているのか

よく誤解されるところなのですが、泣き、怒り、叫んで反抗する子どもは、感情をコントロールできないのではありません。むしろ十分すぎるほど感情をコントロールした結果、それらの行動をとっているのです。そこまでしなければ親の愛と注目を得られない、ひいては自分の命が危うくなる、と直感して。

愛とは「決断」である

あなたはいま、人生というダンスホールの壁際に立って、ただ踊る人たちを傍観している。「こんな自分と踊ってくれる人などいるはずがない」と決めつけ、心のどこかで「運命の人」が手を差し伸べてくれることを待ちわびている。これ以上みじめな思いをしないように、自分を嫌いにならないように、歯を食いしばって精一杯に自分を守っている。
・・・やるべきことはひとつでしょう。そばにいる人の手を取り、いまの自分にできる精一杯のダンスを踊ってみる。運命は、そこからはじまるのです。

ライフスタイルを再選択せよ

この人を愛したならば、自分はもっと幸せになれる。そう考えたのです。いまになって思えば、それは「わたしの幸せ」を超えた、「わたしたちの幸せ」を求める心だったのでしょう。しかし、当時のわたしはアドラーのことも知らないし、愛と結婚を理屈で考えることもしていませんでした。ただ、幸せになりたかった。それだけです。

愛していなかったのではありません。「愛する」ということを知らなかったのです。もしも知っていたなら、あなたはその女性と運命の関係を築くことだってできたでしょう。
フロムは言います。「愛とは信念の行為であり、わずかな信念しか持っていない人は、わずかにしか愛することができない」と。愛する勇気を持てず、子ども時代の、愛されるライフスタイルにとどまろうとした。それだけなのです。

われわれは他者を愛することによってのみ、自己中心性から解放されます。他者を愛することによってのみ、自立を成しえます。そして他者を愛することによってのみ、共同体感覚にたどりつくのです。

問題は貢献感を得るための方法、もしくは生き方なのです。本来、人間はただそこにいるだけで誰かに貢献できています。目に見える「行為」ではなく、その「存在」によってすでに貢献しています。何か特別なことをする必要はないのです。

あたらしい時代をつくる友人たちへ

時間が有限である以上、すべての対人関係は「別れ」を前提に成り立っています。ニヒリズムの言葉ではなく、現実としてわれわれは、別れるために出会うのです。
だとすれば、われわれにできるこはひとつでしょう。すべての出会いとすべての対人関係において、ただひたすら「最良の別れ」に向けた不断の努力を傾ける。それだけです。

ある人から「人間が変わるのに、タイムリミットはあるか?」と質問を受けたアドラーは、「たしかにタイムリミットはある」と答えました。そしていたずらっぽく微笑んで、こう付け加えたのです。「寿命を迎える、その前日までだ」。

わたしが探し求めていたのは、弟子でも後継者でもなく、ひとりの併走者だったのです。あなたは同じ理想を掲げるかけがえのない併走者として、これからわたしの歩みを勇気づけてくれるでしょう。この先あなたがどこにいようとも、わたしはあなたの存在を身近に感じ続けるはずです。