本当にわかる社会学
社会を科学する方法¶
デュルケムは個人の外にあって個人を拘束する、集団に共有された行動・思考様式を社会的事実と呼んで、これを研究するのが社会学であるとした。
個人主義と連帯感¶
デュルケムは、人々の結びつきを複雑で強固にする社会的分業が発達すればするほど、社会はより道徳的な性質を帯びるようになると考えていた。しかし、経済が穀物から鉄へ、つまり農業から工業へとその重心を移す中で、分業による連帯は極めて制限されたものとなり、道徳的な結びつきはむしろ弛緩していったのである。これをデュルケムは有機的連帯の異常事態として、「アノミー的(無規制)分業」と呼んで批判したのであった。
私たちは、こうしたアノミー的分業に巻き込まれて久しいが、無規制状態を打破するには、「個人を尊重する」という新しい道徳が必要だ、とデュルケムは論じている。個人主義が批判されがちな日本社会において、道徳的連帯を可能にする個人主義というものを、もう一度考えてみる必要があるのかもしれない。
「この社会は正常です」¶
アノミーとは、たとえば、急激な経済の悪化あるいは好転などによって、社会の規制力(規範)が弱まった状態のことである。通常、人間の欲望は社会の規範によって抑えられているが、急激な社会変動によってその力が弱まると、人々は持てあます。人は、それが満たされないことに苦しみ、死を選ぶのである。
ここで重要なのは、一見すると極めて個人的ないし心理的要因から引き起こされると思われがちな自殺という減少が、実はそれらに還元できない社会的要因に左右されているという事実である。個人に還元できない社会的事実というものを端的に示すこの書物は、たしかに社会学の古典と呼ぶに相応しいものといえるだろう。
かつて子どもはいなかった¶
そんな衝撃的なことをいったのは、フランスの歴史家フィリップ・アリエスだった。彼は「子供の誕生」という本で、中世ヨーロッパには、いわゆる「子供期」という概念がなく、教育という概念もなかったと説明している。
アリエスは、子どもという概念の形成過程を歴史を追うことで、子どもがいまのように、可愛がられ保護されながら、主に家族と学校の中で成長していくものだ、という常識を覆したわけである。その中で、子どもを中心として編成される近代家族の特異性も示して見せた。アリエスの議論は、いま当たり前だと思っていることが必ずしも、昔からそうだったわけでなく、これから先もそうであるわけではない、という可能性を教えてくれているのである。
身体化された歴史¶
フランスの社会学者ピエール・ブルデューは、「育ちのよさ」のように、私たちが無意識のうちに内面化したり、身体化したりする「社会的に獲得された性向の総体」を「ハビトゥス」と呼んでいる。
ハビトゥスは、さまざまな機会を通じ獲得されるのだが、それらはちょうど年輪のように内側に刻まれたハビトゥスが、次のハビトゥス形成を方向づけるようにして私たちを社会化していく。
ハビトゥスは私たちの知覚や行動を暗黙裡に水路づけ、水路づけられた私たちの選択が新たにハビトゥスを再生産することから、ブルデューは、ハビトゥスは性向の体系であると同時に「身体化された歴史」であるとも論じている。私たちの日々の行為は、私たち個々人の恣意的な決定の結果であると考えられがちだが、実は、身体化された歴史の産物であるというわけである。
儲ける者は救われる¶
必要な物を買うためだけに仕事をして、あとは自分の余暇のために時間を使う。こうした生き方には誰もが憧れる。しかし、現実にはなかなかそうはいかない。むしろ「時は金なり」で、経営者も労働者も、誰も彼も寸暇を惜しんで利潤を追求し、仕事にやりがいや生きがいを求め、また見出してもいる。ドイツの社会学者マックス・ウェーバーは、こうした私たちの日常に宿る精神を「資本主義の精神」と呼ぶ。
プロテスタンティズムの源流をつくったマルティン・ルターは、職業というものは神が各人に与えた使命(天職)であり、職業労働に勤しむことは人間の義務に適う行為であると教えていた。それゆえ、プロテスタントは、利潤の追求のためでなく信仰のゆえに、神の意思に合わせてひたすら職業労働に励む禁欲的な生活を送ったのである。
プロテスタントの禁欲的な職業生活は、意図せざる結果として、彼らに多くの富をもたらした。しかし、彼らは欲望や快楽を厳しく戒めていたので、得られた利潤を貴族的な消費活動に使うことなく、職業労働のために再投資したのである(拡大再生産)。
維持のために利潤を獲得することが必要となり、それまで信仰のゆえに営まれてきた職業労働は、今度は利潤獲得のための経済的な強制となって人々を追い立て、生活のスタイルを決定するようになる。
幸せの測り方¶
アマルティア・センは、これまでの経済学が所得や消費量で人々の幸不幸を判断してきたことを批判して、幸せ(well-being)とは、生き方の幅、つまり「なれるもの」や「できること」の選択可能性の幅に関わるものだと論じている。センは、選択可能性の幅のことを「ケイパビリティ」(潜在能力)と呼ぶ。
長い間抑圧されてきた人は、批判を恐れ、自然と低い水準を望むようになっているかもしれないのである。だからこそ、センは、ケイパビリティへの着目を促すのである。
どのようなケイパビリティを保証すべきかは、人々の主観的評価に基づくものでも、それらを超越した客観的事実として先験的に与えられるものでもない。それは、人々が自らの関心を振り返り、多様な関心と選択肢の中から、何が公共的な判断に相応しいのかを話し合うことを通じて、見出されるべきものなのだ。
不器用な人には価値がない¶
レギュラシオン理論によれば、フォーディズムは1970年代には衰退する。これ以降、社会は、「大量生産・大量消費」から「多品種・少量生産」の時代に入ったのであった。これはフォーディズムの「後の(ポスト)」という意味で「ポストフォーディズム」の時代と呼ばれる。
大量生産の時代、労働形態は大きく構想(企画)と実行に分かれ、労働者は単純化・細分化された単純労働を基本としていた。しかしポストフォーディズムと呼ばれる生産方式は、細かなニーズに合わせて「必要なときに必要なだけ」の、無駄のない製品生産を目標とし、またそれを遂行できるような、構想と実行を同時にこなすフレキシブル(柔軟)な労働者や労働形態を要求する(たとえば、トヨタのジャストインタイム・システム)。
このような変化は、労働者を、従来の単純労働し続ける工場の歯車ではなく、自己実現を含んだやりがいある仕事へと開いていく側面を持つのかもしれない。すなわち「労働の人間化」である。日本の労働現場で見られるQCサークル活動のような、自己啓発・相互啓発を基調として、製品の品質向上を目指す自発的な労働者のサークル活動も、ポストフォーディズム体制を土壌として営まれているといえる。
現代の労働現場における、より個々人の創造性を重視するという職能の変化は、労働者や求職者に対して、極度に高度なコミュニケーション能力や、身体的・精神的タフネスを要求している。
決めつける暴力¶
「顔の大きな傷」によって、怖がられたり避けられたりするとなれば、そうした周囲との関係がスティグマなのである。スティグマに晒された人は、その扱いを不当だと感じるにもかかわらず、やがて「常人ならざる者」という否定的なアイデンティティを引き受け、いっそう孤立していく、とゴフマンは述べている。
ベッカーは、犯罪、非行、麻薬中毒といった社会規範に反する行為、いわゆる逸脱行為によって逸脱者が生まれるのではなく、周囲がその人に「逸脱だ」とラベルを貼ることで、逸脱者となっていくのだと論じた。これを「ラベリング理論」という。
社会が逸脱というラベルによって逸脱者をつくる発送は、「何が逸脱であるか」ということ自体が、社会や時代によって異なるという事実に目を向けさせる。世界には飲酒が年齢を問わず逸脱行為とされる国がある。しかし、日本では飲酒が逸脱行為とされるのは未成年に限ってのことで、それも大正時代以降のことである。
伝統=古いもの、とは限らない¶
18世紀から19世紀にかけては、近代化に伴う急激な社会変化、そして国民国家の誕生に伴って、さまざまな「伝統」が創りだされたのである。
近代化によって古い価値観や生活習慣が崩れていく中で、人々はアイデンティティの拠り所として「伝統」を求め、国家もまた支配の正統性を得るために「伝統」を必要としたのである。創られた伝統は、そうした中で、礼儀的・象徴的行為を繰り返すことによって、人々に特定の価値や規範を植えつけると同時に、支配権力を正統化するために過去から連続性を喧伝する一つの手段でもあったのだ。
歴史を顧みるならば、伝統がどのような文化的な役割を果たしているのかを問うだけでなく、どのような政治的な役割を担ってきたのかも、私たちはいま一度問い直すべきなのかもしれない。
社会を支える国家¶
よりよい政治の形は何か。市場原理による自動調整を信頼して、政府の介入を最小限に抑え、もって市民の自由を最大化する政治(小さな政府)か、それとも、市場が生み出す格差や矛盾を見据え、あくまで平等な分配を第一とする政治(大きな政府)か。
イギリスの社会学者アンソニー・デギンズは、「効率と公正の同盟」という第三の選択肢、すなわち「第三の道」を提示した。第三の道は、市場の役割を放棄しない。ただしそれは、従来のように経済成長を最優先課題としていない。
国家は、個々人を積極的な生へと動機付け、個々人が潜在能力を発揮する機会を確保し、人々が自立と連帯に向かうための条件の整備をするのである。こうして第三の道は、「アクティヴな市民社会」を育て上げ、それによって政府と市民社会との相互補完・相互監視という意味での協力関係を築こうとしているのである。