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生きる意味

生きる意味
上田 紀行

第1章 「生きる意味」の病

何を求めてこの人生を生きるのか、何を求めて生きるべきなのか、そういった私たちの「欲求」の形は、長く続いた右肩上がりの経済成長の時代においては安定していた。しかし、その蜜月関係は突然破綻し、私たちは途方に暮れている。そして、相手から一方的に関係の終結を宣言されて、放り出されてしまい、自分をどうしても「被害者」「犠牲者」としか思えないのが現在の私たちの姿なのである。
「自分が本当に欲しいもの」を欲しがる。「本当に自分が生きたい人生」を生きる。それはあまりにも当たり前の、人間として基本的な欲求であろう。しかし、この日本社会では長い間その欲求は重視されてこなかった。その反動がいま私たちを苦しめていると言えるのではないか。
教育の場においても、仕事の場においても、自分の頭で考え、独自の行動を取る人間は歓迎されないどころか、忌避され、時には罰せられることもあった。
何と幸せな人生!自分の「生きる意味」など自分自身で考えなくても、人生を真面目にやってさえいれば、社会のほうからそれなりに安定し、充実した人生のプランを用意してくれていたのだ。
これまでの時代は、「生きる意味」も既製服のように、決まったものが与えられた時代だった。しかし、これからは違う。ひとりひとりが「生きる意味」を構築していく時代が到来した。「生きる意味」のオーダーメイドの時代なのである。

第2章 「かけがえのなさ」の喪失

子どもたちは誰からも受け入れられるように、自分の色を自主的に消していかなければならない。自分のにおいも誰からも抵抗のないように脱臭していく。そのことによって、子どもたちは、透明になっていく。誰からも受け入れられる透明な人間になっていくのだ。
より深刻なのは、自分が仮面を付けているのかどうかも分からなくなってしまった場合だ。「透明な存在」の仮面を付けているのではなく、本当に自分が透明化してしまった「透明な存在」。
自分自身の色を消し、においを消す「透明な存在」は他の「透明な存在」と交換可能であり、かけがえのなさを喪失してしまった存在だ。そして、自分自身をかけがえのない存在だと思えない。存在感を感じられない。それは人間の尊厳を最大限に傷つけられた状態なのである。
他者から嫌われないために自分を透明化する。それは「他者の目」を強く意識しながら生きるという日本人の自我の構造に根ざしている。その構造は60年前に書かれた日本人論の古典とも言うべき、ルース・ベネディクトの『菊と刀』(1948)でも既に指摘されている。
ベネディクトは欧米の人間から見るととても理解しがたい日本人の行動様式を説明するために、日本の文化を「恥の文化」の典型だとし、欧米などの「罪の文化」と対比させる。
県庁とは最も「世間体」のいい就職先であり、子どもが県庁に入れば、親も親戚も学校の先生も一生「世間に顔だてできる」わけで、もう人生に何の心配もいらない。そもそも私の教えていた国立大学自体が、そこに入ることによって、親にとっても高校の先生たちにとっても「世間体」が最大に確保される場なのであり、私はその「世間体」の牙城で教えていたというわけだった。
一見生徒を支配しているように見える教師たちにも、この強制は強く働いているからである。教師たちも合目的性、効率性に縛られていることに注意することが必要だ。
世間は効率性を求めている。世間はあなたに「意図」を抱いており、その「意図」が効率的に遂行されることを期待している。自分が存在する場には既に「意図」や「目的」があり、その目的に添って行動すればそこで認められるが、それに反する面を出せば排除される。あなた自身の「色」、ノイズを出してはいけない。それは過剰なものであり、決して歓迎されない。それは効率性を下げ、みんなに迷惑をかける。「世間から後ろ指をさされないように、効率的に生きなさい」これがこれまでの日本社会を覆ってきた意識に他ならない。
親の「意図」に添わなければ愛されないという条件付けが深く刻印され、親から見て「いい子」であることを演じてきた人たち、周りの「意図」に過剰に反応するが故に、自分自身が一体何者であるか分からなくなってしまった人たちに対して自分自身をACなのだと宣言しましょうと呼びかけたのである。これはまさに私たちがいままで見てきた日本型抑圧システムへの告発であり、意義あることだった。
「親のせいだ」の認識があって初めて、自分と親の歪んだ依存関係から抜け出し、自分を確立するという次のステップに進んでいけるからである。
どんなに親が思慮深くても、細心の注意を払っても、親は自らの意図を子どもにどうしても押しつけてしまうし、全く傷ついたことのない子どもという存在もありえないだろう。そして子どもはその傷を見つめ、乗り越えることで大人になっていく。
人は子ども時代は親の支配下にある。だから親の「意図」に縛られるし、それに従わなければならない。しかし、その子どもが一度死に、大人となって再生することで、子どもは親の支配を逃れ、自分の人生を歩み出す。自分の人生を自己の選択によって決定できるようになるのだ。
 これまでの日本社会は、ある意味で「子ども」社会であったと言える。親の言うことを聞いていれば何事もうまくいくように見えた。しかし、その親も本当に自分の頭で物事を考えているのではなく、「世間」の目から縛られるままに行動してきた。
親もまた子どもと同じように「透明な存在」なのであり、子供にとっては一見加害者に見えるが、親もまたシステムの中では被害者だからだ。

第3章 グローバリズムと私たちの「喪失」

自分の投資した資金がきちんと使われず、誰かの懐に入ってしまったらどうだろうか。それは利益をもたらさない「死に金」であり、投資額に対する利益額を著しく損なうことになる。そんな国に誰が投資するだろうか。
全く交換可能な風景が広がり、私たちはその土地に生きる「かけがえのなさ」を失ってしまう。そして、グローバリズムとはそうした文化的な「かけがえのなさ」の喪失が世界規模で進行することを意味しているのである。
そんな効率性の低い部門で黙々と働いてるあなたは知恵の足りないおバカさんですよ、だから低い報酬しか与えられなくても当然だし、結局それもあなたの知恵と努力が足りないのだ、自己責任なのだ、というわけだ。
私たちの人生を豊かにするために経済成長が必要だというのなら分かる。しかし、経済成長のために人は生きているのだと言われればどうか。
私たち日本人はどうしてグローバリズムを、「構造改革」を熱狂的に迎えたのだろうか。それは、私たちが私たちを取り巻く「場」の抑圧性に、もううんざりしていたからに他ならない。そしてそれは日本の前近代性によるものだと私たちは考えた。
私たちを抑圧するシステムの本質は、「人の目」と「効率性」の合体にあるということを見た。その場の「意図」を察知し、それを効率的に遂行するように命じる「人の目」を過剰に意識し合う私たちの構造が、私たちの「生きる意味」を奪っている。ならば、「構造改革」とはそうした「生きる意味を奪う構造」の改革でもあるのだろうか。
グローバル経済システムにおける人間、「構造改革」が目指す人間は、とてつもなく「強い」人間でなければやっていけないことが分かるだろう。自分が可能なかぎり高い価値を維持できるように常に鍛錬を怠らず、最高に効率的な場所にいるのかどうかを日々チェックして、もしそうなっていなければ転職する。
この「構造改革」路線の選択も、「グローバル・スタンダード」に従わないと、世界から排除されてしまう、世界中から奇異の目でら見られてしまうのではないかという「世界の目」を気にした選択であったように思われてならないからだ。
私たちがそれを「グローバル・スタンダード」であると認識したのは、アメリカの「指導」によるものだ。
大多数の私たちはそんな強い人間にはなりえない。それは私たちが決して劣っているからではない。そもそも新自由主義は、自然な人間としてはありえない強度を持つ人間を標準と措定しているからである。
私たちが求める「強さ」とは、もっと包容力のある強さである。大人の成熟した強さ、それは自分の強さも弱さも知った、もっとしなやかな余裕のある強さであろう。そして、不安と恐れから行動を発する生き方ではなく、自分自身と社会への信頼に満ちたおおらかな生き方だろう。
私たちのひとりひとりが自分の足元から紡ぎ出していくような、確かな手触りを持った、生きる意味の回復なのである。

第4章 「数字信仰」から「人生の質」へ

先行世代の努力があったればこそ「経済成長教」から私たちは次なる段階へと移行できるという意味で、それは大きな賞賛をもって遇されるものであろう。
経済成長のみの話ではない。私たちがこの社会を見る目、人間を見る目、私たち自身を見る目、そうした世界の見方すべてにおいて「中身から見る」という視点を失ってしまったことに、私たちが「生きる意味」から疎外されてしまった大きな原因があるように思われるのである。
自分がどんなに豊かな暮らしをしているのか、自分は幸せに生きているのかということを自分の生活実感として捉えるのでなく、「給料がこれだけ上がって豊かになった」と給料の額で語ってしまうことと似ている。
単に生きる時間が一年延びたから、私たちはそれだけで幸せになるというわけではない。残された二年、三年という時間をどのように生きるのかが問題となるのだ。それはあなたの「生きる意味づけ」によって全く違ってくるのだ。
もしかしたら、その生徒は絵を描いているとき一番ワクワクし、魂の解放を感じる少女かもしれない。そして人生の最も多感なその時代に、自分の感性を飛翔させて、街の中を、自然の中を歩き回り、霊感のおもむくままにデッサンをし、自分から湧き上がってくる創造の奔流に身を任せてみたいのかもしれない。
そうやって「まあまあの優等生」になった代償に、いのちの輝きを失ってしまう。出来上がったのは、どこにでもいそうな「ちょっと勉強ができる子」である。
数字による評価が、これまで見過ごされていた分野や人を発掘したり、意気消沈しがちな人間に勇気を与えるならば、それは素晴らしいことだと思う。
教授たちが学生からの評価の点数に毎学期ごとに一喜一憂というのでは笑えない。
数字による評価は諸刃の刃だ。ある内実があって、それが数字として表現される、そしてそのフィードバックによって内実がますます改善されていくというならばそれは豊かな現実をもたらすものとなる。
「数字」で私たちの「生きる意味」が規定されようとするとき、私たちはその分かりやすさに魂を奪われそうになりながら、「そんなはずはないのだ」と自ら葛藤する。
20世紀は数字の勝利の時代であった。そして数字が豊かさをもたらす時代であった。しかし21世紀もその信仰が豊かさと幸せをもたらし続けるだろうかと考えるとき、私は否定的にならざるをえない。

第5章 「苦悩」がきりひらく「内的成長」

いま私たちの社会に求められていること、それは「ひとりひとりが自分自身の「生きる意味」の創造者となる」ような社会作りである。
経済的に自立していても、「生きる意味」において自立していなければ、私たちはこの社会システムの奴隷となってしまう。
「他者の目」からの要求に惑わされず、自分の感じ方を尊重して生きていこうということこそが「心の時代」なのだ。私たちにいま必要なのは、私たち自身の姿を、私たち自身の心を映す鏡なのである。
そうか、学問とは点数を取るためのものではなかったんだ。それは世界の中で「愛」する対象とつながることなんだ、そんなことに遅ればせながらようやく気づいたのだ。
「ワクワクすること」「生きてる!という感覚」は、私たちの「生きる意味」の中核にある。それはまさに「生命の輝き」を実感する一瞬であり、私たちが自分自身の「生きる意味」の創造者となる一瞬である。
自分だったらちょっと他の人に何か言われるだけでメゲてしまうのに何でこの人はワクワクしていられるんだとか、何でこんなアホらしいことにワクワクしているのかとか、いろいろと驚かされることはあるが、その「生命の輝き」は必ず伝染してくる。
苦悩とは現実の自分と「ワクワクする自分」との間のギャップから起こるものだ。こうすれば「ワクワクする」という「生命の輝き」が現実によって抑え込まれている。そこに苦悩が生じるのだ。
自分自身の隠れた「声」を聞き届けることこそが、私たちの未来への指針となるのだ。
「苦悩」を探求すること、それにはかなりのエネルギーが必要だ。そして、それは一朝一夕には成し遂げられない。「苦悩」に向かい合い、それを「内的成長」へとつなげていくには、かなりの時間も必要なのだ。そして、そこを耐え抜き、「生きる意味」へと展開していくには、仲間が、そして仲間とのコミュニケーションが必要なのである。

第6章 「内的成長」社会へ

私たちひとりひとりの尊厳、かけがえのなさへの配慮を欠いた哲学で成り立っている社会が、「人の痛みがわからず」「思いやりを欠く」人々を生み出し、様々な深刻な問題を引き起こしているのはあまりに当然のことなのである。
上に立って教えたり命令したりするだけの従来型の大きくて強いリーダーシップは、もはや時代遅れになりつつある。それではひとりひとりの主体性も育まれず、人も組織も活性化しない。個性を育み、多様な個性を尊重しながら、チームとしての力を発揮するような、引き出し、促進し、まとめていく「支援」型のリーダーシップが必要になっているというのである。
この非情な市場社会の中に、「生きる意味」を求め育むような中間社会のコミュニティーをいかに埋め込んでいけるのか、違和感や葛藤や弱さを引き受け、内的成長をもたらしていくような信頼関係とコミュニケーションの輪をいかに成立させていけるのかが、真に強く豊かな社会への試金石なのである。
がんじがらめに見える保守的な構造の中で、大胆な行動を起こしていることに、私たちは大きな励ましを得ることができる。
いま私たちに届くメッセージとは、上の立場から人々に「正しい生き方」を教え諭すものではなく、ともに学び合い、励まし合うような仲間からのメッセージなのである。
現在の日本が目指している、「何の支えもないところで自由に競争しなさい、それが自由な社会です」ではこの世は地獄だ。支えがあればこそ、私たちは人生にチャレンジをすることができる。世界に信頼があるからこそ人生が自由になるのである。
「人類の叡智」の詰まった学問を切り捨てて日々儲かる学問だけを残せば、私たちの「生きる意味の病」はますます深刻化することになってしまう。私たちをこれまで深く支えてきた「叡智」が、効率性の名の下に失われてしまえば、私たちの人生もまた大きな支えを失ってしまうのだ。
学びの場が再構築されることが必要なのだ。ピンチに立たされている学究の人たちよ、この「苦悩」こそが未来を開くきっかけなのであり、大きな脱皮のときなのだと私は仲間たちにエールを送りたい。

第7章 かけがえのない「私」たち

押しつけられた「生きる意味」ではなく、自分自身の人生を取り戻すこと、それは抑圧された自分自身から<我がまま>に生きることへの転換である。しかし、それは自己中心的で周りを意に介さない<ワガママ>となる可能性を秘めている。
そうした「人の目」がなくなれば、寝てしまう。しかし、「人の目」がなくなっても、「自分の目」から見て教室で寝ることは大学生として恥ずかしいことだと思わないかと留学生たちは問うているのだ。
自分自身に対する自尊感情がある人間ならば、「人の目」がないところでも、何でもやり放題ということにはならない。
自己信頼に支えられた<我がまま>の追求は自分を生かし、他者も生かすものとなることが多い。
親からの「無条件の愛」によって私は愛されるに足る存在だということを知る。あなたは尊重されるに足る存在だと、教師や友達たちから「私自身への信頼」をプレゼントされる。そうした経験によって私たちは自分自身が尊重され、信頼に足る人間だという感覚を身につけるのである。
恨みを晴らし続けても、自分自身の自尊心や自己信頼が回復されなければ、私たちは永遠に「敵討ち」を続けなければならない。それは想像性のある人生とはほど遠いものだ。
そこで自己信頼と自尊心が回復していかなければ、私は結局「敵討ち」という形で、常に「敵」に支配される人生を送ることになるのである。
目の前の誰かが自分の期待しない行動を取ったにしても、そこで内心で「内的成長!」と一言つぶやき、この行動は彼らのいかなる成長につながるのだろうかと想像してみるだけでも状況はかなり変わる。
むしろ「生きる意味」の尊重とは、その人の言いなりになるということではない。むしろ「生きる意味」を感じ取りながら、私がそこに違和感を感じるのであれば、そこからコミュニケーションを広げていくようなプロセスこそが、「生きる意味」の尊重だ。
これだけ豊かな社会になりながら、私たちの元気がないというのは、結局のところ私たちの持てる力がお互いを殺し合っているということに他ならない。そこから、互いが互いに勇気を与え合い励まし合えるような社会へと転換できるかが問われているのである。
他人の顔色をうかがって、おっしゃる通りで結構ですでは、結局その抑圧は自分を痛め、反転して敵討ちとなって他者を苦しめることになる。
私たちが苦悩しているとき、困り果てているとき、その苦しみの声を聴いてもらった体験は、確実に自分自身と世界への信頼を深めるものだ。世界は私の声を聴いてくれるという実感を持つ人は、その世界を破壊しようとは思わない。
「生きる意味」の創造者としての発言や行動なのか、「生きる意味」を抑圧された者としての発言や行動なのかによって、同じことを言い、行動しても全くオリジナリティーの次元が異なってくるのである。
私自身が意味を生み出す中心であることを認めたとき、私たちの周りには私だけでなくたくさんの中心があることが分かってくるからだ。
ひとりひとりが自分の人生の創造者となるよう「生きる意味」を再構築していくことは、私の尊厳とあなたの尊厳をともに回復していく歩みなのである。