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経営者のためのリベラルアーツ入門

リベラルアーツ入門
高橋幸輝

リベラルアーツがなぜ経営者に求められるようになったのか?

* 本質をとらえる力がある
* 人間への理解力が深い
* 決断の質が高い
これらの資質を身につけ、経営者やリーダーとしての人間力の次元を高めるのに必要なのがリベラルアーツ(教養)と言えます。
本書では、忙しい経営者やリーダーの方に向けて、まず、三つの資質を養うのに不可欠な「哲学」と「文学」に絞って紹介することにしました。

第1部 経営者にとってのリベラルアーツとはなにか

1教養とはなにかを考える

激変の時代、先が見えにくい時代においては座標軸が不可欠です。その軸を与えてくれるものが教養になります。また、物事の本質を見抜く目、時代を先取りする大局観を養ってくれるのも教養です。
大切なことは、「教養人」が尊敬を得るのは単なる知識量ではなく、それに伴う人間性の高さが前提だからです。「品性」「品格」にかかわると言えます。
「教養」は、英語では「culture」です。辞書ではcultureの訳語は「教養」が先に来ており、次に「文化」となります。さらに動詞形のcultivateには「耕す」という意味があるので、教養は「耕された」という意味合いが出てくるのです。教養人は英語ではa man of cultureと表現します。
いずれにしても、「自然」ではないのです。自然のままでは洗練されていないので、教育などを施して人為的、人工的に仕上げていくというイメージと言えます。それは、「学び」の大切さを示すものです。
そこに教養という言葉が持つエレガントさがあるのでしょう。

2学びの宝庫・リベラルアーツを辿ってみる

リベラルアーツのリベラルには、英語の古語において「豊富な」という意味もあり、アーツには「学問」の意味があります。つまり、豊富な学問=教養となるのです。

3「教養」を再考する

社会的な地位のある人はともかく、無名の職人や農民には教養がないのでしょうか?いや、当然あります。教養とは、端的に言えば、人がよりよく生きるためのもの、「いかに生きるか」を問うものといえるのです。
「教養がある」とは、社会における自分の役割を認識して、それに対する努力をしている状態のことだというのです。自分が周りから何を期待され、何を任されているのか。それに対して役割を果たすのが教養人の姿であり、最も重要な生き方だというわけです。
自分の役割認識も大切ですが、いかに他社と協働していくかがより重要になります。人は一人で生きていけない以上、他者との協力が不可欠なのです。もちろん、自らの専門知識も重要ですが、それだけでは不十分であり、他の専門知識とうまくコラボレートし、的確にコーディネートしていく必要があります。
教養には大きく分けて二種類があると指摘しているのです。

①書物や言葉による教養
 一般的に語られ、私たちがイメージする教養です。常に教養の中心には書物と言葉がありました。例えば難しい本が読める、様々な文献に精通している。ボキャブラリーが豊富などです。
②立ち居振る舞いによる教養
 社会における私たちの立ち居振る舞い、行為などによって示される教養です。例えば冠婚葬祭、茶道や華道、宴席などはまさに立ち居振る舞いについての教養が問われる場となります。身振り、席順、着こなし、表情など非言語の領域です。このような場では行為一つひとつに意味があり、教養が試されます。

4「社会」と「世間」について考える

話し方、立ち居振る舞いなどに、その人の「教養」がうかがえる場面は非常に多い。つまり教養は、「世間」で磨かれると言うことです。
世間は、自分自身が直接関わり、義理と情で成り立つ比較的小さな世界と言えます。たまたま生まれ落ちたところが世間となり、その偶然の賜物のなかで人は共生します。
反対に社会は、形式的で規範的なものです。ルールや形で括られた息苦しいものです。最初は小さな行動範囲であった世間が、人の集まりと共に大きくなり肥大化していきます。こうなると、全体をまとめ上げる理念や規則などが不可欠になるのです。
このような行為は、明らかに社会的産物です。名刺によって、その人の立場、肩書き、力関係、そしてそれらに応じた振る舞い方などが規定されるからです。つまり、世間で磨かれる教養と、社会から要請されるマナーやルールとは質的に異なります。
より広い社会ではルールの共有が求められ、普遍的な価値観の合意、共通のスタンダードの構築などが必要となるのです。
教養人とは、社会的な肩書きや権威ではなく、人と人を結びつけることができる「世間」を構築する人です。しかもそれは権力の行使や、権威を押し付けてするのではなく、自分の「本音の生き方」や人間性を見せることで成し遂げていける人なのです。

5究極の価値を問い続ける

思想は、哲学をベースにして作られ、物事や事象に対する、ある一定のまとまった考えのことと言えます。例えば哲学から得た正義の本質を基に、「どのような社会を構築していくのか」を考え求めていくのです。思想は哲学というインフラの上に立ってこそ揺るぎないものになるでしょう。
哲学という単語は、ギリシャ語源でphilo(愛)+sophy(知恵)から成り立っています。ですから哲学は、「知恵を愛する」ことを意味しています。そして哲学とは、物事の意味についてどんどん遡り考え、限界まで抽象化させて本質や心理に辿りつこうとする作業と表現できます。

6本質を見る習慣を身につける

松尾芭蕉が唱えた蕉風俳諧の考え方に「不易流行」があります。
「不易」とは、新しさのなかにもあっても時代を超えて常に人を感動させる不変性を指し、「流行」とは、時代の変化と共に起きる新しさを言います。
経営者やリーダーがいつの世にも新しいものを求め、そのなかにブレない本質を探求する姿勢がそれに通じます。
哲学的探求のプロセスでは、必ず自己の頭を使います。単に答えを聞いただけ、受け売りの知識やスキルだけを手に入れるのと大きな差です。知識・スキルへの偏重は、受験戦争などの過度な「偏差値主義」のお弊害です。一般的にスキルは日進月歩ですが、真理は普遍なのです。もちろんスキルの修得は、日々の生活のためには大切です。それと同時に、本質への挑戦は、自分を高めるためには欠かせません。

7「アゴラ」という場が、未来の人材を育てる

現代におけるアゴラの役割を評価し、そのような「場」をつくるときが来ているように思います。アゴラは世代を超えて人と交わり、情報と知識を共有することにより、歴史に学び知恵を獲得する場所です。
変化の激しい時代にサバイバル能力を高めるには、地頭を鍛えること。つまり、自分の頭を使って考えるという極めて根源的なところに行き着く必要があります。ハウツーに頼っていては、現代の世界や日本の状況には対応できません。

8グローバル社会で信頼されるには?

大切なことは、自らの考えをしっかり自分の言葉で伝えることです。つまり、「何をどう思うか」を語ることが信頼を得る第一歩になります。日本人は自分の意見を押し殺したり、遠慮したり、「沈黙は金なり」を美徳とする傾向がありますが、グローバル社会ではそれは通用しません。まず口に出す(スピークアウト)ことが大切なのです。
日本の経営者はよく日本の歴史物を読みます。これも結構なのですが、世界史や哲学、文学に触れればグローバル社会でも十分対応できる知的体力がつくはずです。坂本竜馬や徳川家康だけでは、世界のリーダーとの共通の話題とはなりにくい。

9ユーモアセンスを身につける

自分自身の未熟さや浅はかさを客観視し、自己風刺できるというのは、魅力的なリーダーとしての重要な条件と言えるでしょう。それは人間としての度量を表しているように思うのです。

10どこから始めるのが身に付きやすいか

常に「なにか」「なぜか」を心に持つことです。疑問に思うことから視野が変わり新しい一歩が始まります。日本人が苦手で欧米人が得意なのが、この「なぜ」のWHY思考です。日本人はついつい「どうやって」のHOW思考になりがちです。
まず、根源は「なにか」を考えてみる、既成概念を疑ってみる、立場やスタンスを変えてみる、横断的にみる、そんな目線を用意してくれるのがリベラルアーツと言えます。

第2部 哲学からアプローチするリベラルアーツ

経営者やリーダーは、この哲学者を知っておきたい

ここで選んだ十六人の哲学はまさに哲学の王道といわれるもので、経営者やリーダーの方に多くのヒントを与えてくれます。今の社会・経済が、どのような思想によってつくられたのかが分かり、また、物事の本質を理解し言語化する力を育んでくれるからです。
哲学の王道を知ることで大局観が養われます。一方、王道を知らずに枝葉を見ていては、判断を誤る原因となります。彼らのエッセンスを学び、経営に役立てていただくことを願います。

思考 ソクラテス 自己認識について

ソクラテスの「無知の知」はソフィストの対極の考え方です。
ソフィスト:詭弁家。知っているようで知らない人たち
ソクラテス:知らないことを認める
知らないと意識したほうが、心理に接近できます。新しいことを知る機会が増えるからです。そうすることで、ソクラテスが提唱する「善く生きる」ことができるのです。
ソクラテスが提示する大切な行為が「訊く」ことです。対話を通じて、「相手」に答えを自ら導き出させるのです。上手に訊き出すことが肝要ですので、訊き手も頭を使うことになります。生徒も先生も頭を使うことになるこのやり方は、ソクラテスメソッドとも呼ばれています。
企業においても、上司は、対話を通じて部下を成長させなくてはいけません。ついつい教えたくなる衝動を抑え、部下に考えさせること。これが、ソクラテスから学びたいことです。安直に上司が答えを教えてしまうと、部下は考えなくなります。知識の詰め込みはできても、応用や生産力が低下するのです。
上司の仕事は、答えを教えることではなく、答えを見いだせる道筋のヒントを与えることだと、ソクラテスは考えていました。
我はアテネ人にあらず、ギリシア人にあらずして世界市民なり。
この時代でグローバルな視野を持ち、国民性の枠を超えた思考を持っていたソクラテス。グローバル化を迎えた今日、是非持っておきたいスケール感であり視座である。

思考 プラトン 絶対価値について

プラトンは、この世には「絶対的な価値」が存在していると言いました。
プラトンが持ち込んだ核となる思想は「イデア」です。「イデア」とは、個々の事物をそのものにしている根本となる真の形、完全形のことです。また善悪などの価値基準になる不変の絶対価値の形を言います。
この形は、私たちが生きている感覚の世界を超えた「理性」の世界に存在し、理性によってのみ理解されるものであるとプラトンは語ります。
企業が作り上げる「ビジョン」は、まさにイデアの追求にほかなりません。ビジョンは、シンプルな言葉で経営の方向性や、本質を表現するものだからです。
プラトンのイデアの観念は、現代の私達の思考にも大きな影響を及ぼしています。私たちは「イデア」を求めて日々、さまざまな工夫や努力を行っています。
プラトンの思想は、広く普遍的に物事を見ることと、それに向けての努力の大切さを示しています。視野狭窄に陥ることなく、前へ進むことの重要性を教えてくれるのです。人は、究極の本質をつかむことにチャレンジしたい動物なのかもしれません。
プラトンが出した答えが、哲学者がリーダーとして統治するという「哲人政治」です。理性と知性があり、癒着や不正などから無縁の哲学者が政治を行ったほうが、公正無比で正義のある政治が実現できると考えました。
プラトン曰く、「各人が役割を理解してベストを尽くすこと」が社会正義なのです。
プラトンは、芸術に対しては大いに理解を示し肯定します。しかし、それは「音楽」だけです。音楽は彼にとって、魂に届く波動と感じたのでしょう。美しい物には美しさが先天的にあり、その根底は「秩序」であると考えていたのです。
人間は意味を求めて生きる生物だ。
生は常に意味付けを求めている。仕事に意味を与え、人を動機付けすることがリーダーの仕事である。

思考 デカルト 個人主義について

デカルトが「方法序説」で示した科学的思考法は、現代の問題解決理論やロジカルシンキングのもとになったものです。その思考法は、次の四つのプロセスを踏みます。
(明証)第一は、はっきりとしていて疑いがないようなもののみを受け入れる。
(分析)第二は、問題をできる限り多く細切れにする。
(総合)第三は、最も単純な課題から認識し、徐々に複雑な課題へと進めていく。
(枚挙)第四に、見落としがないことを確信するため、吟味と検証を徹底的に行う。
この科学的プロセスでデカルトは「世界」を的確に分析し、心理に接近できると考えたのです。このプロセスが「方法的懐疑」です。
デカルトは「私がこのように『全ては偽である』と考えている間、その私自身はなにものかでなければならない」。これだけは真であるといえることを発見するのです。これが有名な「我思う、ゆえに我あり」(コギト・エルゴ・スム)です。すべてを疑っても、疑っている自分がいることだけは疑いようのない事実だということです。これが「デカルトのコギト」と呼ばれるものです。
デカルトによるこの大発見は、のちの個人主義の礎となります。
デカルトの思想は、便利でいたい、良い生活がしたいといった自分の快楽への要求でした。個人の快適さを追求するために、市場拡大と欲求の解放を容認していったのです。自己の肯定を過剰に追い求めるところに欧米の抱える問題があります。現代のグローバリズムは一歩間違えると、その最たるものになるでしょう。
賛成の数が多いからといって、何一つ価値のある証拠にはならない。
正しさの根拠は他者ではなく自己に置く。そのためにも熟考を重ねるべきなのだ。

思考 パスカル 「信じる」について

ブレーズ・パスカル(1623~1662)は、まさにマルチ人間です。数学者であり哲学者、さらに物理学者、発明家、神学者でもありました。40歳前に亡くなりましたが、ここまで業績を残したのは驚きに値します。パスカルが三角形の内角の和が180度であることを発見したのは有名です。
フランス語の「パンセ」が意味する「考える」という行為は、永遠に完結しません。スタートもなければゴールもない、思考の断片のかたまりです。そもそも、パスカルは世に出そうと思って書いたわけではないので、未完なのは当然かもしれません。
自分の思考が正しいかどうかは誰も分かりませんし、証明もできません。自分が正しいと思いこむしかないのだから、思考することすらもギャンブルであると言えるのかもしれません。悪循環にはまるようなことを言いつつも、パスカルは2つの精神が必要と言っています。
・幾何学の精神(論理を持つ)
・繊細の精神(感性を持つ)
要するにIQとEQの両方が必要だと言っています。この時代に言い切るところが只者ではありません。
このような大天才が言い残した最も有名な言葉が、「人間は考える葦である」です。
パスカルは、「どんな知識も学問も思考も体系にはなりえない。ただの断片なのだ」と語ります。その断片こそが『パンセ』の中のパスカルの言葉です。
混沌の中では、根拠も科学も通じない。だから、ひたすら思考するのみなのです。
まさに人間は弱い、まるで葦のようなもの。でも、それは考える力を持った葦と言えます。思考は無限大で、宇宙以上の広さがあります。さらに、パスカルは、「人類はいわば不断に学ぶ唯一の存在である」とも言うのです。やはり考えることの大切さを強く訴えています。
「神を信じるか信じないかを問われたら、私は信じるほうを選ぶ。そのほうが未来への力が湧き、いい結果の出る確率が高いからだ」と、パスカル自身は『パンセ』の中で言っています。これが「パスカルの賭け」です。
「起業」したいと考え、市場調査など準備を完全にしようといろいろ考えているうちに、機会を逸する人がかなりいます。真に重要なことは、ある程度の準備が整ったら自分を信じ、覚悟を持って一歩を踏み出すことです。たとえ失敗しても、それ以上に悪いことは起きません。失敗は知的財産になるのですから。
残念ながら未来は誰にも見えません。となると、日々ある意味「賭け」なのです。科学的な根拠は完全でなくても、儲かるかではなく、お客さまが本当に喜ぶことを目指し、自分を信じて生きる以外ありません。
人間は神と悪魔の間で浮遊する。
人間は善にも悪にも転びうる危うさを持っている。常に耳の痛いことを言ってくれる人が近くにいることが大切である。

思考 ヘーゲル 弁証法について

ヘーゲル哲学の特徴は、その壮大さにあります。歴史は目的を持って前に進む。その歴史を動かす原動力は「精神」であると語ります。彼は2つの精神を想定します。一つは世界精神、もう一つは絶対精神です。前者は神を、後者は自己実現を果たした高次の精神を意味するものです。
ヘーゲルは哲学を「唯一の学問」としています。彼の著作である『精神現象学』では、哲学を「知を愛する」レベルから「本当の知」に昇華させるのだ、と宣言しています。彼にとって哲学の目的は「精神の発見」です。なぜなら、哲学、歴史、美術などは精神活動の所産で、いかに精神が覚醒したかを教えるものだからです。
このようにヘーゲルの哲学は、抽象的で難解です。
ヘーゲルは、「『私』と世界が一致するときに幸福が得られ、真理となる」と主張します。エゴを超越し、全体性に包まれるとき幸福が来ると言うのです。
各人の個別性がなくなることは、決して喜ばしいことではありません。その分、自由がなくなるわけです。そこで対立が生まれ、意識がもう一段上に進むのだとヘーゲルは語ります。自分がより大きな精神に呑みこまれることが真の喜びであり、その対立から生まれる新しい精神の営みのプロセスが弁証法です。
矛盾や対立からギャップが生じます。このギャップを埋めるダイナミズムが弁証法です。問題が生じたときに、一段上の状況へと導くための手段です。一見すると相容れない2つの問題を、どちらかを切り捨てることなく「包み込み」「解決する」方法論です。
異文化交流では、相互理解が重要な鍵を握っています。それには、どちらが正しいかを追求するのは無意味です。お互いの文化を理解しつつ良い部分をすり合わせていくには、弁証法的発想が不可欠です。
我々が歴史から学ぶことは、人間は決して歴史から学ばないということだ。
人間は同じ過ちを繰り返すことへの強烈な皮肉であり警句。最近の企業不祥事はまさに好例である。

倫理 カント 道徳律について

理性と欲望は対極にあるものです。欲望は資本主義を発展させた主因で、反対に理性は欲望のブレーキとなります。理性的であることが人間らしさに繋がるとカントは考えるのです。理性の働きによって得られる普遍的な道徳に、無条件で従うことを求めます。
基準は「その行為を自分のみならず全員が行ったとしても構わないか」です。これは明らかにエゴの否定であり社会規範としてのモラルです。定言命法は、一切の妥協なき絶対的な道徳法則です。カントは「自分だけを除く」という人間の自分勝手な習性を危険と感じて否定しています。
「わが行いを見習えと、誰にでも言えるように行動せよ」とカントは説きました。
国家間の永遠平和を確定するには、次の3条項を挙げています。
・各国家における政治体制は民主主義に基づく共和制でなければならない
・国際法およびその執行機関は、自由な諸国家の連合、すなわち国際平和期間をつくるべきである
・世界市民法は、普遍的な友好をもたらす諸条件に制限されなければならない
この提案を受けて、1920年に国際連盟ができたのです。
徳にとってまず要求されることは、自分自身を支配することである。
自律できているかは、自分ではわからない。周囲に認められて初めてそう言えるのである。徳のあるリーダーか否かは、他者が決めることである。

倫理 サンデル 共通善について

サンデルが提唱するのは、コミュタリアニズム(共同体主義)です。彼は市場原理主義とグローバリズムが社会の各領域にどんどん広がっていて、さまざまな固有の価値や理念を押しつぶしていくことに批判的なのです。
アメリカは新自由主義のもっとも徹底している国です。福祉や教育などの領域にも市場原理主義が入っていきました。アメリカにおける新自由主義は非常に過激で、国民皆保険への反対はもちろん、公立高校の廃止、ひいては警察すらも民営化すべきだと議論しています。このような感覚は日本人にはいささか理解しがたいものがあるかもしれません。いずれにしても市場原理主義偏重の荒波によって、従来もっと人々が共有できたもの、公共的に利用できたものがなくなっていることを、サンデルは非常に問題視しているのです。
その本質的な論点のひとつは、モラルの問題です。
サンデルの思想は、「正義よりも善のほうが大切である」と考えていることが大きな特徴です。
「すべて市場任せはおかしいのでは?」という人々の疑念、アメリカン・ドリームの主体であった中産階級の没落、そして一般労働者の無力感と貧困化ーにつながっているとサンデルは言うのです。
「優れた企業のリーダーは、自社の公共的な役割について考え抜くことを決して忘れないものだ」と学生たちに授業で語っています。この言葉は、CSR(企業の社会的責任)の重要性を表しています。
ここまで市場経済、民営化や規制緩和が進んだ日本やアメリカで、サンデルの理想が日の目を見ることはあるのかは、誰にも分からないでしょう。
しかし、現在進行している、グローバリズム市場原理主義による非正規雇用の拡大による格差、中産階級の没落、地域のコミュニティとしての消滅に鋭い批判を投げかけているのは間違いないことと思います。
笛を配るとしよう。最もよい笛をもらうべきは誰だろうか?
分配をするときの基準や根拠をしっかりと持つことの重要性を説く。正解がない以上、説得的な基準が不可欠だ。

政治 アリストテレス 現実主義について

いかなる技術、いかなる研究、また、いかなる実践や選択も、それぞれ何らかの善を希求しているはずです。そして究極の目的は最高善であるとアリストテレスは考えます。つまり、行為の目的は善であるということです。
「善とは、質にあってはあらゆる徳が、量にあっては適度が、関係にあっては有用が、時間にあっては好機が、場所にあっては適住地がそれである」
善の中に徳があり、徳は、すべて中庸において成立します。より具体的には、あらゆる徳は、超過、不足によって失われ、中庸によってあるということです。
アリストテレスにとって「よい」国とは、我欲のためでなく公共の福利のために治められている国を指します。そしてこれを達成しうる国制は3つあり、王制、貴族制、共和制だと言います。
この3つの堕落した形態が、それぞれ僭主独裁制、寡頭制、民主制となるのです。注意すべきは民主制とは、アリストテレスの時代においては、有象無象が集結して勝手気ままに物事を決めていく国家のことを言います。
アリストテレスは現実性に言及し、実用的な哲学者と言えます。
企業においても意思決定を行うプロセスは極めて重要です。「どのようなメンバーがいかなるやり方で決めるのか」は、透明性や最適性を担保する上でリーダーが常に考えておきたい事案です。出自や経歴などを偏在させないで人材を取り込むなどは、これに当てはまります。
アリストテレスが重要視するのは「生まれつきと習慣と理性」です。したがって、まずは生来の部分を利用し、よい習慣を作りあげます。そして理性によって自らを律するように生きなければならないと主張します。アリストテレスは人間を「合理的な動物」と表現していますが、まさに「生来性、習慣、理性」の3点セットが重要なのです。
多数の友を持つ者は一人の友も持たない。
リーダーは孤独になりがちである。しかし己の軸を持って一心に生きていけば、真の理解者を得ることができる。

政治 マキアヴェリ 権謀術数について

当時のイタリアは、食うか食われるかのサバイバルの時代であり、マキアヴェリにとっての政治は、生存競争でした。『君主論』は支配者の手の内を明かした本であり、権力を誇示する手練手管が書かれていたため、当時は、発禁処分にされたのです。
マキアヴェリの思想は、人間性への徹底的な悲観主義と現実主義に満ちています。彼にとって、権力のみが国の存続を支える柱であったのです。
彼の政治学上の功績は、「国家」の意味を確定したことでしょう。政治思想を世俗のものとし、主権国家を表す語「ステイト」を定着させます。
国家とは、政治体制があり、領土、領海、領空がしっかりと確立されているもので、いわゆる「主権」が必要になります。主権とは国家統治の権力で、その国自身以外には縛られないというものです。マキャヴェリは国家には今日言うところの主権が伴うべきであると考えていたのです。
「為政者とは好機をつかんで勝ち馬になる。たとえ暴君と呼ばれても国を支配するか、さもなければ滅ぼされるかのどちらかだ」とマキアヴェリは説きます。
為政者にはモラルも信仰も不要です。政治の究極的な目的は、国家の安全確保と領土の拡大ですから、「支配者はモラルを超えた存在」でなくてはならないと言うのです。
一軍の指揮官は一人であるべきである。
指揮系統と責任が分散してはよい組織は作れない。集団指揮体制や「民主的」な運営は無責任を生みだす。

政治 荻生徂徠 制度について

六経に示されている聖人の道は、孔子以前の先王が、世を治め、民を救い(経世済民)、天下を安泰にするためにつくりあげたものと言われています。それは礼楽刑政(礼節、音楽、刑罰、政治)などの諸制度です。
徂徠は、為政者に徳があれば民衆もおのずから導かれて治まるという考え方に反対し、世を治めるにはこの諸制度の確立が必要であると説いたのです。
徂徠は「気質不変化説」を主張します。人間の生まれ持っての気質は画一的な道徳などによって変えることは無理だと言うのです。ならば、人の短所には目をつむり、良い部分を伸ばしたほうがその人にも、また組織にとっても有益であると考えたのです。今で言う「長所進展法」です。
徂徠は実際に、「人はその長所のみ取らば可なり。短所を知るを要せず」と言います。このことはピーター・ドラッカーも、リーダーの登用について「他人の長所ではなく、短所が目につく人物は、管理職に任命してはならない」と同じように語っています。
徂徠は為政者側として権力を正当化しつつも、外してはならない道=倫を理解していました。このように社会秩序を守る上で公私の峻別が徂徠にとっては極めて重要だったのです。
徂徠の哲学からリーダーとして学ぶべきことは、制度構築やコンプライアンスを徹底し、効果的な運用をすることが大切であるという点です。
米は米にて用に立ち、豆は豆にて用に立ち申候。
餅屋は餅屋、人には人の活躍の場があり、能力を見極めることが肝要である。全ての人に役割をあてがうことがリーダーの仕事である。

経済 マルクス 格差について

労働力は生産手段の向上で減少します。ところが資本家は今までと同等に働かせ、余分に生産させた分は自分の利益にする。これが「余剰価値」と言われるマルクス経済哲学の根幹を成す概念です。
この余剰価値はいわば、労働者を余分にただ働きさせているのであって、これを「搾取」と呼ぶのです。それは主体的に取り組む労働ではなく、強制労働に近くなるので、マルクスはこれを「疎外」と称しました。生活のためだけに働くことや、仕方なしに働く人たちはまさに「疎外」されていると考えたのです。
彼がパリで『共産党宣言』を書いた当時は、産業革命の真っただ中のイギリスで資本主義が高度化して、労働者が搾取されればされるほど、革命が起きると想定していました。
しかし、イギリスでは労働者は食べていかれたためか、革命が起きなかったのです。飼いならされた労働者たちは、革命精神も去勢されてしまったのかもしれません。
資本主義国で共産革命が起こると考えたことが、マルクスの大きな誤算でした。
マルクスのもう一つの誤算は、今や大多数になった「中くらいの人」たちを想定せず、超金持ちか極貧かの二者択一の世界で考えたことです。しかし世界は、少なくとも日本は「中くらい」が主流です。
マルクスはさらに次のような流れを想定します。
矛盾だらけの資本主義は、やがて革命によって壊され、生産力に応じた社会へと移行する。そして能力に応じて働き、働きに応じて分配される社会主義へ。さらに能力に応じて働き、必要に応じて分配を受け取る共産主義に行き着くと。
彼の主張には重要なポイントがあります。たとえば、公正な社会をつくろう、公平な富の分配をし、さらにどうしたら従業員に喜んでもらえるかといったことです。人としてどうあるべきか、社会はいかに機能すべきかなどを問うているのです。
現代のように格差が増大し、経済のグローバル化が進行するなかで、根源的な「正義は何か」という議論に戻るとき、マルクスは意義を持つのです。
役に立つ物が増えすぎると役に立たない者が増えすぎる。
便利さも極まると人間は自分の頭を使わなくなる。便利さ、簡便さは人間の退化をもたらす。

経済 シュンペーター イノベーションについて

20世紀を代表する経済学の二大巨頭といえるのが、ケインズとシュンペーターの二人です。
二人とも大天才であったにもかかわらず、ケインズは「ケインズ経済学」として有効需要の理論などで現代でも君臨していますが、シュンペーターはマイナーな感が否めません。
しかし、シュンペーターこそ、昨今叫ばれている「イノベーション」(革新)の元祖であり、もっと見直されるべき経済学者であり哲学者です。ソニーもアップルも、シュンペーターがいなければ存在しなかったかもしれません。
シュンペーターは、『経済発展の理論』(1912年)のなかで、「企業家は新結合を実行する経済主体」と呼びました。一方、景気の波に乗りながら企業を経営するだけの者は単なる経営管理者であるとして、「企業家」と区別したのです。
新結合とは既存の生産手段の新たな方法での活用で、このようなダイナミズムで起きるイノベーションこそが、経済発展の要因であるとシュンペーターは喝破しました。
新結合によるイノベーションの成功は、企業家を確実に儲けさせます。これが先行者利潤です。
現実にはイノベーションにも原資は必要です。ここでシュンペーターは資本家としての銀行家を誕生させ、企業家は銀行の信用創造の助けを借りて初めて新結合を遂行できるとしたのです。
シュンペーターは、イノベーションに通じる経済活動を「創造的破壊」と言いました。破壊しながら創っていくことが、社会の原動力になると言ったのです。
「創造的破壊」によるイノベーションは、模倣されることで新たな技術を生み出し、経済を好況へと導きます。
古きを壊し新しさを創ることは、シュンペーターによれば、「経済構造を革命化する産業上の突然変異」と同じことなのです。生物は生き残るために変わってきたのと同様、社会も企業も変化していく必要があるのでしょう。生き残れる動物の条件は、強いからではなく、変化への対応力が高いことなのです。
シュンペーターの次の言葉は強烈です。「創造的企業者は自己の成功によって自分自身を無用なものにする」
これはイノベーションが自らを破壊し、新しい自己への刷新であり、企業を新たなる高みへと昇華させていく手段であると捉えることができるでしょう。経営者は日々イノベーションを胸に、社会にダイナミズムを生み出さなくては生き抜いていけません。斬新な商品、卓越したサービスなどは、イノベーションがもたらす産物なのです。
発明家はアイデアを生み出し、企業家は「事を行う」。
企業家は評論家や夢想家ではいけない。まず行動、実践を通じてイノベーションを起こすことが企業家の本分である。

経済 石田梅岩 商人道について

武士には切腹がありますが、商人にはありません。同じ「責任を取る」といっても、行動が違うのです。商人はお金儲けをするべきですが、武士がお金儲けに走ってはいけません。それが、梅岩の言う「道」なのです。
老荘思想では、道のことを「タオ」と言います。神と一本化していく道のことを説き、非世俗的であって、どろどろした経済・政治からは超越したところにある概念です。
日本で言う「道」とは、一本道を表します。茶道や弓道というように、ストイックに一筋に究めていくことです。追求完美の精神で、これは現代にも脈々と受け継がれています。「人間国宝」や「無形文化財」などという言葉は外国にはまずないでしょう。そして梅岩の思想も同じです。「商人道」、つまり、商人としての道を極めようと説いたのです。
商人の蓄える利益は、その人だけのものではなく、天下の宝であると言います。今で言う「GDP」の発想です。倹約は、「知足知分(足るを知る、分を知る)」の表現とされ、道徳的価値を与えられるのです。
梅岩は、勤勉・正直の2つの要素の重要性について熱弁をふるいます。家業に精を出す(=勤勉)こと。商人の得る利益は、武士の禄と同じ、正当な利益であることを主張します。そして、人様から利益を頂戴する以上、商人は「正直」であることが大事であると、モラルの重要性を説くのです。水の上に落ちた一滴の油のように、ちょっとした誤魔化しが全てを駄目にすると警告しています。
日本で商人と言えば「近江商人」が有名で、彼らが標榜する「三方よし」(売り手よし、買い手よし、世間よし)にも通じる考えが梅岩哲学に見てとれます。
梅岩の哲学は、日本の商人のなかに今も息づいているのです。
正当な利益を取るのは商人の道である。
適正に利益を得ることは商人の本分。儲けのために二重利得や顧客を騙すようなことをしては自分を殺すことになる。

文化・教養 世阿弥 花について

『風姿花伝』に書かれた世阿弥の議論は非常に明快で、彼の考えは「花」に始まり「花」に終わります。花に関して有名な言葉として「秘すれば花」があります。これは奥義を見せずさらりと行うからこそ、客に感動を与えられるという意味です。過剰な種明かしや芸事の舞台裏を開けっぴろげに見せることは愚の骨頂だという世阿弥の戒めであります。隠すことで花が開くとは大変奥深い言葉です。
世阿弥の最も有名な言葉に「初心を忘るれば、初心、子孫に伝わるべからず。初心を忘れずして、初心を重代すべし」(『花鏡』奥段)があります。いわゆる「初心忘れるべからず」です。よく座右の銘で、これを書く人がいますが、あまり知られていないのは「初心」は3つあるということです。
「是非初心」
物事に少し馴れてきて周囲から褒められたりすると奢りが出てくることがあります。そこでの戒めを表現したのがこの言葉です。将来を期待していたのに、成長が止まる人の多くは、このことに気づかない人といえます。常にスタート時の緊張感を持ち続けるとともに、技術の進歩の度合いも測るゼロ地点として意識しておくことの大切さが伝わります。
「時々初心」
ベテランの域に達したら、未開の領域に踏み込むべきです。新しいイノベーションのためには柵や関係性をリセットすることが重要で、その新しい領域で得る苦労や知識の蓄積が大切な財産になるのです。
「老後初心」
老境に入ってからも、その年齢にふさわしい芸を新たに学ぶ心を求めているのです。それに加えて、老後は人の育成こそが最大の学びであると世阿弥は言っている気がします。
住する所なきをまず花と知るべし。
花を咲かせ続けたいのなら、経営者は安住せずに変化、イノベーションを起こしていかなくてはならない。

文化・教養 南原繁 リベラルアーツについて

南原は「新日本文化」を提唱します。そこで日本人に欠けていたものは、人間意識、人間理想だったと表明。人格の価値を回復させ人間そのものの革命である「人間革命」を成し遂げようと訴えたのです。このことが日本の再生、そして、犯した過ちへの贖罪であると語りました。ちなみにこの『人間革命』は1948年、南原によって、書籍として出版されています。
南原は戦後日本が目指すべき方向を、「同義国家・日本の建設」と考えました。その裏付けには、真・善・美・正義からなる文化諸価値を大切とする南原の哲学があります。「真の革命」は正義の実現を目指す「政治革命」と、「心理や人間価値」の確立を目指す「人間革命」との一致によってのみなし得るという主張です。
全国のナンバースクールを廃止し、各県に国立大学を創りました。そこにナンバースクールのよき伝統を残すべく、最初の一年半は教養学部で一般教養を学ばせ、また課外活動も盛んにすることを願ったのです。駅弁大学などと揶揄されることもありましたが、国の基本は人作り、すなわち教育であり、その意味で南原は世界有数の教育インフラを日本に構築した人です。
教育の大切さと、国民に対してどうやって教育の裾野を広げるかを考えぬいたのが南原といえます。彼は、教養学部を作り一般教養を学ばせるリベラルアーツ教育の環境を作った先駆者でした。
対者の顔色を窺うことなく、自主・自立、自らなすべきことをなすことである。
リーダーたる者、顔を上げてしっかりと自分の哲学を持ち、おもねず物事に向き合うことが何より重要である。

心理 フロイト 無意識について

ジークムント・フロイトは、オーストリアの精神分析学者であり、精神科医です。フロイトは、カントが唱える自立(自由=自分で決めること)している個人という人間観に根底から疑問を投げかけました。
フロイトによれば、「私」を動かしているのは、「私」の意識の中にはない何ものかであるというものです。これが20世紀最大の発見である「無意識」です。
人間の心は、自我と、乱暴なイドと、それを制約し抑え込もうとする超自我とのバランスの中で成り立っているのです。言い換えると天使の声と悪魔のささやきが自我のなかに存在しています。
フロイトは「あらゆる生あるものの目指すところは、死である」という悲観的な言葉を言います。そして、身体的な危機を恐れた人々は共同の力で規制するために集合し始めました。それが安全を保障する国家の誕生であり、社会と文明の始まりというわけです。
文明の相当部分が欲動の断念の上に打ち立てられており、欲動を満足させないことがまさしく文明の前提になってます。文明のための断念こそが至上命題になるのです。自由を代償に安全を手に入れた結果、誕生したのが文明なのだという考えです。
超自我の命令は非常に厳格です。超自我の命令に従うことは自我の幸福をないがしろにすることであるがために、神経症の原因になっています。安全を保障する文明という重たい鎧を身に着けた結果、身動きが取れなくなってしまった人類は葛藤に悩み苦しんでいるのです。これらは、フロイトの著書『幻想の未来/文化への不満』に書かれています。
また、自分だけが正常だと思っている人は多いはずです。しかし文明化の結果、人はみな神経症になってしまっているというのがフロイトの考えなのです。
あなたの強さは、あなたの弱さから生まれる。
自分の弱さを認識することで、人間はそれを克服すべく工夫と努力をする。その積み重ねが大いなる力を生む。

第3部 文学からアプローチするリベラルアーツ

経営者やリーダーは、この文学を読んでおきたい

文学から受け取る感受性は、経験の積み重ねの量とともに強まっていく傾向があります。文学を通じ、異なる時代と立場のキャラクターに感情移入し、自らを置換することで他者の人生を追体験できます。これがより深い人間理解に繋がるのです。仕事は人があってなせることです。ですから、人を理解することこそがリーダーとしての最重要課題といえるのです。

シェイクスピア

●嫉妬に燃えた緑の目の怪物(オセロ)
●名前になんの意味があるの?(ロミオとジュリエット)
●不満の冬も去る(リチャード三世)
●生か死か、それが問題だ(ハムレット)
●綺麗は汚い、汚いは綺麗(マクベス)
●この世はすべて舞台だ。男も女もただその役者に過ぎない(お気に召すまま)